150 毛野臣が生きた世界
継体天皇の死が三年繰りあげられた事によって時系列がかなり、曖昧なものになってしまった、磐井が亡くなったのは、本来は継体二十五年であって、継体二十二年ではない。毛野臣は継体王の在位と筑紫の君葛子が筑紫の王である時代の、韓地全権武官なのである。毛野が大和国を代表しているものか、葛子が王である倭国を代表しているのかは判然としない。
それはともあれ、毛野臣が任那の安羅に遣わされた時の、韓地の状況というものは相当でにひどいものであったことが判断できる。 任那諸国の筆頭であるべき金冠加羅が崩れようとしていた。書紀はそれを書かないが、三国史記中の新羅本紀・法興王19年(532年・継体天皇28年ごろか)の条に「金冠加羅国王、金仇亥は妃及び三子と国の財と宝物をもって新羅に投降した。新羅は最高位である上大等の位を授け、その旧領をもって所領とすることを許した。」とある。それは毛野が遣わされた年の翌年におきる事である。新羅は盛んに新羅に接する任那諸国を攻めた、当然このままでは、任那諸国は次々と新羅の手に落ちてしまうという声が任那諸国に充満したであろう事は間違いない。
書紀が引用する百済本紀によれば継体二十五年三月(在位二十八年間とした場合)百済軍は進軍して、任那の一国、安羅国に到達したようである。そして乞乇城を築いたとある。
それに併記して、高句麗王、安の死と日本天皇及び太子、皇子ともに崩くなるという一文があるのだ。
つまり、磐井が亡くなった年に、百済は新羅に対して軍を進めて、新羅と任那諸国の国境の一点である安羅に城を築いたのである。百済は安閑天皇元年五月(継体天皇二十八年在位説では継体二十五年にあたる)高官を遣わして救援を日本(倭国?大和国?)に求めているようだ。
こうしたことがらから、任那まさに風前の灯火にあたって、百済の求めに応じて、倭国と大和国は連合軍として韓地に渡ろうとしていたようだ。大和国は倭国傘下の一国であるから、本隊の援軍として堂々と九州に上陸した。・・・そして倭国の隙をついて倭国王たる磐井を殺害する叛乱を起こしたというような事が見えてくる。
そのような、危機的な状況であるのに、その年代にあたる安閑・宣化天皇紀における書紀の叙述は、平穏を感じさせるものであるのはどういう事だろう。ここには韓地の争乱に感心がない、このような韓地の苦境に投げ込まれた毛野を横暴、無能として描く書記には国のために努力した将軍に対しての同情や愛情が感じられない。これを以てしても、毛野が大和国の将軍でなかったと推測できそうである。