15 謎の継体天皇
5世紀の初め、つまり西暦405年、おおどの君が大和王国の王となった。(この頃は継体天皇の名はなかった。古事記の編者、太安万侶が古事記の序に期日を記しているが、それは和銅五年正月二十八日、西暦712年である。このころ継体天皇と名付けられたものであるという。この頃の天皇名は本来の○○大王××大王という名を△△天皇□□天皇と後年の朝廷が贈り名をつけたとのことだ)
おおどの君、つまり贈り名、継体天皇は50才になる頃まで勇猛果敢な戦士として大和王朝に武力を持って隠然とした軍人であった。雄略、武烈と続いた血で血を洗うような大和王席争いはついに、濃厚な血筋の根絶やしという状況をもたらした。数多くの血の薄い親族にそれぞれの姻戚が癒着して、カオスのような争乱状態となった。ここにおいて、その機会をとらえ徹底した軍力を持った地方豪族である、おおどの君が大和王朝を簒奪した。そのような事は中国の王朝では当たり前のことであるから驚く事はない。後世、鎌倉時代(11世紀末~)第三代将軍源実朝が殺害されるにあたり時の上皇後鳥羽院は執権北条氏追討の宣司を出して、天皇家と武士の決定的対立である承久の乱をひきおこし武士団20万騎朝廷軍1万騎という不利な戦いの末、完敗する。その時もし武士に勇気があったなら王家は廃絶される可能性があった。
このような機会が、おおどの君に訪れたのだと筆者は思う。しかしながら新王家を作るのは軋轢が多すぎる、また王家を支える地方の群小王家をなだめるためにも、まして筑紫の倭国との対立の為にも血筋を強調して王女を妻とするわけである。また自身も王家の血筋である事を強調するのだ。大局的に見れば前に書いたようにたとえ5代後の孫では源頼朝が天皇になるようなものでおかしいのに、おおどの君が本当に血をうけているかどうかは怪しいものだから、もっとおかしい。・・・こうして、おおどの君は西暦にして505年贈り名「継体天皇」となるのだ。 継体天皇は野心満々であった。倭国に対しても野心を隠さなかった。