149 毛野臣をめぐる時の迷路を歩く
書紀では磐井が継体二十二年十一月末に亡くなった翌年の三月、大和朝廷の使者として、新羅の侵略を押さえるために毛野臣が任那の代表国である安羅に遣わされた事になっているが、その順序が正しいとすると、本当は継体二十六年(継体期が二十八年間であったと仮定した場合)三月から二十七年の年の末、毛野臣は任那で王のようであったのだと思える。ちなみ書紀は次代の欽明天皇二十三年正月の記に
新羅、任那の宮家を討ち滅ぼしつ。一本に云わく、欽明二十一年に任那滅ぶと云う。全てを任那と呼び、分けては加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒朝国・古嵯国・子他国・散半化国・乞飡国・稔礼国と言う、合わせて十国である。
この記によれば、毛野臣が遣わされたのは、上記の順番によれば二番の安羅であるようだ。筆者には、今まで聞き慣れない安羅が突然登場するような印象がある。
上記中の筆頭の加羅は、「金冠加羅」又は「南加羅」の隣の国で、いわゆる、任那の中核であった金冠加羅をさす「加羅」ではない。「三国史記」中の新羅本紀・新羅法興王十九年(532年)条に金冠国王、金仇亥が新羅に降った記事がある。532年は磐井が亡くなったとされる527年の5年前である。それで言えば毛野臣が安羅につかわされたのは528年である。
しかしながら、継体期が28年続いたと前提すると、磐井が亡くなった年は530年の頃だったと考えられる。その翌年にあたる531年(まさに、金冠加羅が新羅に併合される前年である!)毛野が安等に遣わされるのはなんと象徴的ではあるまいか!