表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
149/226

149 毛野臣をめぐる時の迷路を歩く

 書紀では磐井が継体二十二年十一月末に亡くなった翌年の三月、大和朝廷の使者として、新羅の侵略を押さえるために毛野臣が任那の代表国である安羅あらに遣わされた事になっているが、その順序が正しいとすると、本当は継体二十六年(継体期が二十八年間であったと仮定した場合)三月から二十七年の年の末、毛野臣は任那で王のようであったのだと思える。ちなみ書紀は次代の欽明天皇二十三年正月の記に


 新羅、任那の宮家を討ち滅ぼしつ。一本あるほんに云わく、欽明二十一年に任那滅ぶと云う。全てを任那と呼び、分けては加羅国からのくに安羅国あらのくに斯二岐国しにきのくに多羅国たらのくに卒朝国そちまのくに古嵯国こさのくに子他国したのくに散半化国さんはんげのくに乞飡国こちさんのくに稔礼国にむれのくにと言う、合わせて十国である。


 この記によれば、毛野臣が遣わされたのは、上記の順番によれば二番の安羅であるようだ。筆者には、今まで聞き慣れない安羅が突然登場するような印象がある。

 上記中の筆頭の加羅は、「金冠加羅」又は「南加羅」の隣の国で、いわゆる、任那の中核であった金冠加羅をさす「加羅」ではない。「三国史記」中の新羅本紀・新羅法興王十九年(532年)条に金冠国王、金仇亥が新羅に降った記事がある。532年は磐井が亡くなったとされる527年の5年前である。それで言えば毛野臣が安羅につかわされたのは528年である。

 しかしながら、継体期が28年続いたと前提すると、磐井が亡くなった年は530年の頃だったと考えられる。その翌年にあたる531年(まさに、金冠加羅が新羅に併合される前年である!)毛野が安等に遣わされるのはなんと象徴的ではあるまいか!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ