148 毛野更迭に横たわる真実
この大がかりな継体天皇在位の記事改変は、そもそもが百済本紀の「日本天皇・太子・皇子ともに崩くなる」という一文が原因なのである。国内には継体天皇が亡くなったときに、太子・皇子とも亡くなったという記録は残っていない。それであるのに大あわてで、継体天皇に結びつけている風情だ。論理的にいえば、これは破綻している。しかし膨大な日本書紀を編纂できる有能な史官には、この矛盾などは、はっきりわかっていたはずではなかろうか。それが解っていながら、その矛盾をさらけだすのは、意図があるからである。それは何度も云うが、大和朝廷以前に「朝廷」が存在をしたことを、史官は書紀に書き残しておきたかったのであるとしか言いようがない。大和朝廷とは時系列が別な「朝廷」とはなんであろうか。そう、それは「倭国」である。
毛野を韓地に将軍として出したのも「倭国」であるし、毛野の横暴を押さえるために収監したのも、又倭国なのである(これについては後で考察)。倭国は磐井王の死をもって、滅亡しなかった。それは磐井の王子、葛子が生き残っていることを書紀自身が書いていることである。また、このような大戦争の勝利の後ならば当然書かれる戦果も、全く書く事なく済ましているし、その勝利の宴も喜びも何も描かれない。継体天皇が物部大連に約束した「長門より東を朕、制す。筑紫より西を汝制せ(原文・長門以東朕制之。筑紫以西汝制之)」と、勝利の時には国を分け与える様な言葉も全く実行された様子がない。
継体22年(427年)のこの「勝利」のあと、毛野臣は任那に遣わされて、現地担当主席官として、まるで王の様に任那を私物化するのだが、「朝廷」はなすすべもない様子に判読できる。毛野臣は継体24年(429年)年末に、ひどい失政のあと、ようやく捕らえられて、対馬まで戻ったときに病で亡くなった。継体天皇は年が明けた春二月亡くなる。
このところの時系列は注意を要する。毛野に代表される倭国の任那政策の失敗と徒労が、大和国に倭国侵略の機会を与えたと思われるから、ここのところの書紀の記事は相当創作になっていると見なければならない。つまり筆者は、毛野臣は「近江の毛野ではなく筑紫の毛野」であって、磐井追討の戦乱の二年前に任那にたいする百済と新羅の侵略を防ぐべく渡韓させられた、特別全権将軍であったのではないかとか思っている。