表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
148/226

148 毛野更迭に横たわる真実

 この大がかりな継体天皇在位の記事改変は、そもそもが百済本紀の「日本天皇・太子・皇子ともに崩くなる」という一文が原因なのである。国内には継体天皇が亡くなったときに、太子・皇子とも亡くなったという記録は残っていない。それであるのに大あわてで、継体天皇に結びつけている風情だ。論理的にいえば、これは破綻している。しかし膨大な日本書紀を編纂できる有能な史官には、この矛盾などは、はっきりわかっていたはずではなかろうか。それが解っていながら、その矛盾をさらけだすのは、意図があるからである。それは何度も云うが、大和朝廷以前に「朝廷」が存在をしたことを、史官は書紀に書き残しておきたかったのであるとしか言いようがない。大和朝廷とは時系列が別な「朝廷」とはなんであろうか。そう、それは「倭国」である。


 毛野を韓地に将軍として出したのも「倭国」であるし、毛野の横暴を押さえるために収監したのも、又倭国なのである(これについては後で考察)。倭国は磐井王の死をもって、滅亡しなかった。それは磐井の王子、葛子が生き残っていることを書紀自身が書いていることである。また、このような大戦争の勝利の後ならば当然書かれる戦果も、全く書く事なく済ましているし、その勝利の宴も喜びも何も描かれない。継体天皇が物部大連に約束した「長門より東を朕、制す。筑紫より西を汝制せ(原文・長門以東朕制之。筑紫以西汝制之)」と、勝利の時には国を分け与える様な言葉も全く実行された様子がない。


 継体22年(427年)のこの「勝利」のあと、毛野臣は任那に遣わされて、現地担当主席官として、まるで王の様に任那を私物化するのだが、「朝廷」はなすすべもない様子に判読できる。毛野臣は継体24年(429年)年末に、ひどい失政のあと、ようやく捕らえられて、対馬まで戻ったときに病で亡くなった。継体天皇は年が明けた春二月亡くなる。


 このところの時系列は注意を要する。毛野に代表される倭国の任那政策の失敗と徒労が、大和国に倭国侵略の機会を与えたと思われるから、ここのところの書紀の記事は相当創作になっていると見なければならない。つまり筆者は、毛野臣は「近江・・の毛野ではなく筑紫の毛野」であって、磐井追討の戦乱の二年前に任那にたいする百済と新羅の侵略を防ぐべく渡韓させられた、特別全権将軍であったのではないかとか思っている。




 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ