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147 継体あとの安閑・宣化天皇は存在しなかった。

 継体天皇二十五年は辛子かのとのね年にあたると書紀は云う。しかし書紀が干支かんしをここではわざわざ引き出してくるが、書紀は干支をあえて書かない史書であるかに見える。つまり、あまり具体的には年号のわからない歴史書である。

 したがって継体天皇から欽明天皇に至る年月は不明である。けれど、できるだけ史実に忠実であろうという姿勢を持っていると思う。


 倭国の存在を隠蔽するために、継体天皇の死を継体25年とした書紀であるが、足らない三年を創作して歴史的事実に近い表記にもどそうとしてるようだ。今、それを検証したい。


 書紀によれば継体二十五年二月に継体天皇は亡くなっている。この年は安閑元年である。翌、安閑二年十二月に天皇は亡くなる。その翌年一月に宣化天皇が即位した。二年のあと、三年が記事なしであり、四年は二月に亡くなり埋葬は十月になっている。そして欽明天皇の即位は翌年一月である。


 この記事を詳細に読めば、宣化天皇三年の記事なしと、四年に入って早々二月に亡くなり埋葬は十月という遅さで、これは異常に感じられる。この二年がなかったことにするならば、安閑~宣化在位は三年に過ぎない。この三年が、ちょうど継体二十八年と云われていたのを百済本紀によって削除した三年とちょうど重なり合うのは非常に奇妙である。


 これは、明らかな書記史官の創作ではあるまいか。本当は継体天皇の在位は二十八年間であったのに、二十五年で終わったという記事の矛盾を補正するために作られた話ではなかろうかと思われる。


 書紀が書かれる以前に継体二十八年在位のあと欽明天皇に引き継がれたのは良く記憶された事実であったと思われる。しかしこれでは、百済本紀の記事と、継体の没年があわない。それを合わせるために継体紀は二十五年とした。しかしそれでは、歴史の流れに穴があく。しかし三年分架空の天皇を挿入するだけでは、嘘が見えてしまう。それで、六年分二人の天皇記事を作り上げたと思われる。


 

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