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145 継体天皇在位が25年の謎

 書紀は毛野臣の遺骸を積んだ舟の歌の後、続けて毛野を捕らえに来た目頬子めずらこについての歌を前文とともに記す。


 目頬子、初めて任那に至る時に任那にいる倭人が歌をおくった。


 韓国からくにをいかに言うことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る


 (訳)任那にどんなことを言おうと 目頬子が来るのだろう 遙かに遠い壱岐の海路を 目頬子はやってくる


 この歌には、「朝廷」から、やって来る(恐らく屈強な軍を従えた)目頬子への恐れが出ているように思われる。帰途、対馬で毛野は亡くなるのだが、毛野は目頬子によって殺害されとも考えられる。



 以上の出来事が起きたのは継体24年の事であった。そして、書紀はその記事に続いて継体天皇が亡くなった事を以下のように記す。


 二十五年の春二月、天皇、病甚やまいはなはだ丁未ひのとひつじ(七日)に」天皇、磐余玉穂宮いわれのたまほのみやかむあがりましぬ。時に年八十二。冬十二月の五日藍野陵あいののみささぎほおむりまつる。(二月七日に亡くなって、はるか後の十二月五日に葬儀をしている、これを覚えていて欲しい・筆者)


 この記事の後に、例の、「継体天皇はある本によれば継体28年に亡くなったと云う。それなのに、ここで継体25年に亡くなったというのは百済本紀をとって文を作っているのだ。というのは、その文に、継体25年にあたる年に日本天皇・太子・皇子ともに亡くなったとあるからだ、後世、このことを良く考える人が真実を知るであろう」と文章が続くのである。そして、この文章をもって日本書紀の継体紀は閉じて、次の安閑天皇紀の記事に移る。


 日本書紀編集官吏は実際は、継体天皇の在位期間が28年間であることを知っていた。しかし、その真実を書いて、広く韓地に流布する百済本記と自らの書紀の記事が並立すると、いつの日か、継体天皇と「継体二十五年に族滅した天皇」の矛盾から継体天皇が本当の天皇でないことがばれてしまう可能性大である。それで日本書紀は、継体=天皇という図式を固定化するために継体天皇の在位を25年とするのである。

 しかし完全犯罪的にいえば、書紀は百済本紀の事は伏せておいて、知らぬ顔で継体天皇の在位を25年と改変すべきなのに、わざわざ自ら馬脚を表してしまうのは、愛すべき事である。


 さて、書紀は記事をできるだけ真実であろうとするから(当初、筆者の述べた書紀は嘘だらけという考えは訂正したい)削除した三年を調整しなければならなくなった。その苦労のあとが次代の安閑天皇・宣化天皇の記事にはっきりあらわれている。


 

 

 


 


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