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144 書紀から読み取れる任那と「朝廷」の驚くべき至近距離

 さて、以上の書記本文から、気づく事がある。それは事の展開の早さである。


 任那から「朝廷」に毛野の横暴を訴えるために使者が来たのは継体二十四年九月で、それを受けて調吉士つきのきしが「朝廷」から任那につかわされた。帰国を阻止するために城を守らされてしまった期間は半月はあったと考えられるが十月になって「朝廷」に再び戻ってきている!任那の使いが来たのが九月一日であったとしても、調吉士つきのきしが渡海した日は九月五日にはなっていただろう。その彼が、むりやり一定期間城守をやらされ戻ってきたのが十月だとすると「朝廷」→任那→「朝廷」その期間は二ヶ月であり、しかもその間、城守をやらされて、毛野の敗退をある程度見て(10日ほどか)、「帰朝」の準備を整えたであろうから、往復に純粋に要した日時は恐らく30日余りと考えられうる。すると、任那と「朝廷」間は舟で片道15日の旅程であるにすぎないではないか。


 かって、角川春樹氏が、邪馬台国の位置を実証すべく古代渡海舟を模して帆のない、14かいの舟である「野性号」と云うのを造って旧百済の領地であった帯方郡(ソウルのある、韓半島中西部)より博多に至る1200キロを実験航海したことがある。途中舟が海流に妨げられどうにも進まなくなったので、行程の半分を動力舟で曳航したということなのだが、それによればその1200キロを47日間で航行できたということだ。


 櫂を漕いだのは若くて屈強な大学のボート部員であったと言う事、海流に乗るための迂回、水夫の休息のための船泊まり等々の事を考えると実質は1200キロを100日の早さで進んだであろうと、角川春樹氏は推測したそうだ。


 この実験では舟は一日12キロで進んだ結論を得た事になる。前方後円墳から出土した舟の画を見ると、古代の倭船にも帆があるように見える。筆者は現代のヨットで、伊豆諸島を航海した経験を持つが、その経験からいえば古代の原始的な追い風でしか役立たない帆であっても効用はあるから、もう少し船速は早かったように考える。

 その船速を平均一日20キロと考えると、十五日で300キロ進める。その速さだと任那のある、現在の釜山から九州北岸の福岡まで、およそ200キロを10日間、釜山から瀬戸内海を経て近畿の入り口である大阪まで600キロなら30日を要する。


 どうだろう、「朝廷」がどこにあったか、「天皇」どこにいたかはっきり見えては来ないだろうか。そう、福岡周辺にそれはあったのである。


 もちろん、その推測は書紀の記事が真実であるという前提の上ではあるが。



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