143 毛野の最期
こうした事で任那王の心に、毛野に対しての離反が起きた。臣の久礼斯己母を新羅に遣わして出兵を請した。臣の奴須久利を百済に遣わして出兵を請わした。
毛野臣は百済の兵が来るというのを、任那の臣の一人から漏れ聞いて背評(不詳)で迎え討って、任那に向かう兵の半分を殺した。百済は、それで奴須久利を疑い、捕らえて、足と手と首を鉄の鎖で繋げて厳重に縛ってしまった。百済軍と新羅の軍はともに任那の城を囲んだ。軍の動きが漏れて、殺害された者が多く出たので、任那の王、阿利斯等は、城の塀越しに詰られた上に、「毛野を出せ」と大音声で云われた。
毛野は城に籠もって、城を自らの兵で守備した。そのため、毛野一人のみを得ることができない。それで百済、新羅の軍は、至便の地を選んで留まり、一月を経た。そしてついに、近在に城を築いて退却した。久礼牟羅城と言う。両軍が撤退するときに、帰路に点在する任那の五城を落としたという。
それからほどない十月に毛野に帰国を阻まれていた調吉士は、任那から帰って来て云った。「毛野臣は人品卑しく、政治に慣れず、任那を騒がし、勝手気ままであり、何ら問題を解決しようとしません」と。朝廷は目頰子(不詳)を遣わして収監させようとした。
毛野はこの年のうちに、召されて対馬に至り、病にあって死ぬ。葬る時に川のままに近江に入る。これはその妻が歌ったという歌である。
枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子 い笛吹上る
(枚方を経由して、川を笛ふきつつ舟が上る 近江の毛野の若様の亡骸が、ああ、笛吹きながら上って行く)