141 任那における毛野臣の悪政
これを受けて、毛野臣は熊川(書紀註・ある本が云うには久斯牟羅〔かってあった馬山=釜山近く〕だという)に本拠をすえて新羅・百済二つの国の王を召したが、重臣のみが来ただけで両王は来なかった。
毛野臣はひどく怒り、二国の使いを責めて云った「小さな者が大きな者に仕える事は天の道である。どんな理由があって二国の王は自ら来て天皇の勅(命令の書)を聞くことをしないで、軽い身分の使いを寄こすのだ。今、もし汝らの王が自ら来たとしても、必ず追い返すであろう」と。 使者等は、その言葉に怖じ気づいておのおの帰って王に告げた。
このことによって、新羅は改めてその上司を兵三千とともに遣わして、詔を聞こうとした。毛野臣は、居城を遠くまで新羅兵が囲んでいるのを見て熊川から別の城に移ったという。新羅の上司、伊叱夫礼都智干岐は、毛野臣が三月も詔を伝える事を保留したので、毛野臣に悪意があるとして、金官・背伐・安多・委陀を落とした。(この四村は、いずれも釜山近くを流れる洛東江河口地域に所在したと考えられている)
継体二十四年(529年)九月 任那の使いがやって来て言う。
「毛野臣はついに久斯牟羅をもって居宅を興し造って、留まること二年、その間、政をなおざりにして人々を悩ましています。倭人、任那の人のあいだに生まれた子供の判別の争いで、判別が不能なので、楽をしようとして誓湯して(くがたちの事。裁判の判断を、熱湯に手や身体を浸し、やけどしたか否かで定める)云う。『正しい者は爛れず。偽りある者は必ず爛れる』と、このため湯に没して爛れしぬ者が多い