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140 磐井死後の韓地の状況

 磐井が殺害された後、九州周辺はどうなったのかという記録は残っていないが、韓地については、書紀に様々な記事がある。以下は書紀の記事の要約である。

 

 継体二十三年(528年)三月 近江毛野臣おうみのけぬのおみ安羅あら(任那の一国)に遣わされる。新羅に進言して南加羅ありひしのから・㖨己吞とくことんを建てた。


 百済は将軍等を安羅に遣わして、天皇の勅(命令の言葉)を聞かせた。新羅は任那の一国を破った事を恐れて重職のものを遣わさず十七階の十一位という者を安羅に遣わして天皇の勅を聞かせた。

 安羅は新たに高殿を建てて毛野臣を引率して高殿に登った。国の王は、後について階を登り、国の重職の者の一人、二人のみが階の上に登れる有様であったという。それで百済の将軍達ですら殿の下にいたのだ。数月、将軍も交えない少数による堂の上の謀りごとがひんぱんに続いたので、庭にいつも置き去りにされていた将軍は恨んだという。

 

 四月七日 任那の王、己能末多干岐このまたかんきが来朝した。大伴大連金村に次のように奏上した。

「そもそも海の向こうの諸国の中の任那に応神天皇が屯倉(皇室直轄領)を、お置きになった時より、諸国王から国を奪うことなく、もとからの領地を封地(治める土地)としてお認めになったのはまことに道理のあることでありました。今、新羅は、元から決められた封地の境を越えて来たりて侵します。どうか天皇にお伝えになって臣が国をお救い下さい」と。大伴大連はいのまま奏上した」

 

 この月、任那王は朝廷の臣下に送られて帰って行った。また、臣下をして使いとして、任那にいる近江毛野臣につぎのような勅を与えた。「各国の申す所を良く聞いて、疑いを解き和解せしめよ」と。

 

 

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