14 継体、謎に包まれた天皇
大和王家は雄略に始まる王権争奪の果てに、王家自体が衰弱したようだ。雄略のあと、清寧、顕宗、仁賢、武烈と続き、ついに王を継ぐのにふさわしい濃厚な血筋が途絶えたと、大和王朝の正規な歴史書「日本書記」は記している。以下に書くことも「日本書紀」によっている。継体王は西暦450年生まれ在位は507年に始まり531年までだ。(天皇の称号をつけないのは、万世一系の罠にはまらないためである、五世紀初頭のこの時代、大和王家は天皇を名のっていなかった) 日本書紀 巻第17には 継体天皇は崇神天皇の五世の孫の彦主人王の子なり。とある。五代の子孫というのは清和天皇から出た、清和源氏の源頼朝が天皇になるというのと同等で、その血の薄さは異常である。
仁賢天皇の皇女で武烈天皇の姉か妹である手白香姫を妻に迎えても、やはり異常であると言わざるをえない。非常に血の濃さにこだわって王を決めていたのに、突然そのルールを無視してしまっている。五代後の血筋の薄さで良いなら、いかに王家が親族を無節操に殺戮しても、五代後ほどの血筋のものは事欠かないと思える。あえてここで継体を連れてこなくても良いのに、あたかも日本書紀は草の根分けてやっと探したという書き方をする。だから、こう考える、継体は勇猛な軍隊を抱えた、もう一つの地方王家の王であったのではないかと。それは吉備氏や葛城氏が前方後円墳で勢力を誇示する、大和王家とほぼ同じ規模の王家であったように、やや規模は小さいが非常な軍力と情熱に支えられた集団であったのだと思う。 大和王家は多少の優位にたっていたものの、やはりそれほどの集団ではではなく、簒奪されたのだろう。継体は、近畿の勢力争いのトーナメントの最終勝利者なのである。継体の身分の低さを隠蔽するために、継体に繋がる新大和王朝はあらゆる王家の伝説と神話を盗んで、古事記を作り、古事記では執筆が単純で馬脚が現れてしまうので、これを絶版とした。今日、古事記は大和朝廷の正式の歴史書に思われているが平安時代にはその存在は忘れられ発見されたのは鎌倉時代の事だったという。 鎌倉時代、古事記を発見した人は日本書紀と同じようなものが出てきたので、その存在の意味が分からず首を傾げたのではあるまいかと推測する。我々すら古事記があって、さらにそれにダブるように日本書紀があるのか、おかしいと思うのではあるまいか。・・・つまり、古事記は作ってみたが大和王朝にとって不都合な書なのである。