139 倭国の衰亡が新羅を侵略発展させた。と云う隠された真実
書紀の継体七年夏六月の条には「百済、将軍を遣して穂積臣押山(百済本記に云わく委の意斯移麻岐弥という)にそえて五経博士(仏教に詳しい高僧)を貢る。別に奏して云う。伴跛国、臣が国の己汶の地を掠み奪う。伏して願うのは、聖断を賜って元の百済の国に返されるようご助力いただく事です」と、ある。継体二十三年の記事はこれに重複する。
すでに百済が得たはずの多沙について、再び割譲を要求する内容で、収まりが悪いように感じる。あるいは継体二十三年の記事が、事実を表していて、継体七年の記事は万という大和軍の出兵の動機を説明するために、時期を早めて書かれているのかもしれない。しかし、史官がこの重複に気づかないはずはないと思う。この重複はたぶん意図的なものである。
大和国に関心のあることは、任那が新羅に侵略される事ではなく、そんな、大和国に遠い、他国の事よりも、当面の倭国の力を奪うことであったはずだ。それで、大和国は突然兵を倭国に向けたのであるが、建前上は、九州は既に大和国の支配下にあることになっている、ただの叛乱に対して大軍を動かしたと書くよりも、新羅に対して兵を動かしたと書く方が、宣伝の書としての日本書紀の目的にあっている、そして、ここにその創作が成り立つと筆者は思うのである。そして、この素人っぽい記事の重複は、あえて心ある書紀作成官史の意図的に行うところではないのだろうか。事実の痕跡を残しておき、後世のひとびとの判断資料としたいという歴史家としての良心のなせる技ではなかろうか。あえて、磐井の君の死後に、新羅討伐の原因であった事件を再び持ち出してくるのは、大和軍の出兵が、新羅討伐にあるのではなく、磐井王の倭国を倒すためであったことを書紀史官が示そうとしているのではあるまいか。
つまり、磐井討伐の時系列が、真実と異なっているのだ。新羅の任那侵略が、大和軍の出兵の原因でなく、出兵は倭国打倒の為だったのである。新羅の任那侵略は、磐井が亡くなって、国力が落ちた倭国を見て、始まった事なのだと考えられる。
大和国が倭国中心部まで軍を進め得たのは、長らく任那問題に苦労したあげく任那の四県をみすみす百済に譲渡されるまで力を落とした倭国力の疲弊ゆえである。