138 磐井死後の倭国
磐井の死後について語ろう。書紀によれば磐井が亡くなったのは継体二十二年(527年)十一月のことであった。
しかし倭国は、磐井王の死をもって全滅したわけではなかった。十二月には王子の葛子が大和国に糟屋の屯倉(今の福岡県糟屋郡)を提上することで死を免れたのである。大和国は何万という軍勢を動かしながら結局得た物は、屯倉(領地)ひとつであった事を白状している。日本書紀が真に倭国隠蔽の書であるならば、ここでは数々の屯倉を創出したと書くところだと思うが、そうは書かない。(これは、大和軍の負け方がひどかった事もあるが、例の、書紀執筆官の操作であったと考えられる)また、糟屋に屯倉を創出した様子ではなく(もともとあった)屯倉を大和国が入手したように読める文章である。これらを考え合わせると、大和国は倭国王家を急に襲って、王族の多くを殺害したが、たちまちに倭国の国軍に包囲され全滅した。従って大和軍の得た物は何もなかった。追い詰められた大和の残兵は怒りの余り、磐井王の為に造成されていた、ま新しい王墓を飾る石人・石獣を打ち砕いた。
大和軍の急襲によって数多い皇子のことごとくが殺害されたわけではなく、生き残った皇子の一人葛子が磐井王の後を継いで倭王となった。
年が明けた、継体二十三年(528年)の三月、百済聖王は下哆唎(任那の一国)の国守穂積押山臣(書紀では、大和の官吏のように書かれているが、当然ながら倭国の官吏である。書紀は文中で、長年韓地の貢ぎが磐井の所に納められていたことを書いている事を思い出して欲しい。この事から考えれば、倭国王たる磐井王に韓地から毎年、税とも言うべき貢ぎを送り続けた現地官僚がいたはずである。それが押山ではあるまいか?ちなみに継体七年夏六月の条に押山を説明するのに【百済本記に曰く委の意斯移麻岐弥という】とある。この文中、委に・やまと・のルビをふっているが、だれがふったか確証はない。素文のままでは倭国をしめす委である)に語って言った。
「倭国に貢ぎをあげる百済の使いは、多くの岬を避けて航行するごとに、常に風波に苦しんでいます。そのために倭国に貢ぐところの物を湿らせて、損壊し、醜い物にするのです。それで、加羅の多沙(帯沙)津(港)をいただいて、臣(聖王)が倭国に朝貢する津路にしたい」と。(これは、書紀の継体七年六月条にある、已汶・帯沙割譲と同じ事を書いているのだが、割譲の理由などが異なり、別の書から引いてきたと考えられる)