表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
137/226

137 驚くべき百済本紀についての記事

 第五十一章で既に書いたことだが、この半年の間に、愚かながらも筆者の日本書紀解読力は少し増したようなので、改めてこれに触れようと思う。あの時点では、筆者も霧の中にいたのである。


 書紀の継体二十五年の記事(賢明な読者には、全くばかげた説明だろうが、この頃は元号がいまだないのである。従って継体天皇の御代二十五年という書き方をするわけである。全くの蛇足と思われるが、これは一度書いておきたかった)にはこうある。 


 二十五年の春二月、天皇病重く、磐余玉穂宮いわれのたまほのみやに崩りましぬ。時に年八十二。

ある本に云わく、天皇二十八年の甲寅きのえとらかむあがりましぬと。しかるに、ここに二十五年辛亥(かのとのい)に崩りましぬというのは百済本紀から引いてきて文を作ったのである。百済本紀の文に云うには辛亥かのとのい三月、軍は進んで安羅あんらに到達して、乞乇城こっとくのさしつくる。この月に高麗、その王安こきしあんを殺す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子・ともに崩さりましぬと云う。これによりて言えば、辛亥かのとのいの年は継体二十五年にあたる。このことの真実はのちに良く考える者が知るであろう。


 以上が、書紀の文章であるが、これを読み解いてみよう。国内のある本には継体天皇は継体二十八年甲寅(きのえとら)に亡くなったと書かれているが、しかし百済本紀には辛亥かのとのい、この時に、日本の天皇及び太子(王位継承権のある皇子)・皇子・ともに亡くなったと記事があるので、これが継体王が亡くなった年と判断すれば継体二十五年が辛亥かのとのいの年にあたるので、継体天皇の亡くなった年と判断したと言うのである。そして言う、良く考えれば後世、この真実が解けるであろうと。(現在の私達にはこのミステリーな語り口は書紀のたまらない魅力ではないだろうか!筆者)


 しかし、史料には継体天皇が亡くなった時に、太子も皇子もともに亡くなったという記事は存在しない。それであるのに日本書紀は天皇が死んだという記事と継体天皇の死を強引に結びつけて、継体二十八年に継体天皇が亡くなったと言うことが一応通念であったところを、百済本紀の記事とつじつまを合わせるために継体天皇の死を継体二十五年としたのである。


 そう改変しなければどういうことになるだろうか?天皇が二人いた事になってしまう!


 実際はこうではなかろうか。継体天皇が亡くなったのは継体二十八年で、その三年前に磐井王が殺された。その三年前は正に継体二十五年で辛亥かのといの年である。その時磐井の君の多くの皇子もともに殺されている事は間違いない。磐井王の後を継いだ筑紫の君、葛子くずこが、何番目の息子か記録がないから、そう考えてもおかしくはない。


 と、すれば、百済本紀の描く、天皇・太子・皇子の死は磐井一族の死を言っているという、とんでもない事実がうかびあがってくるのだ。


 もう少しくどく言えば、筑紫の君磐井こそは天皇と呼ばれる、その人であったのである。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ