137 驚くべき百済本紀についての記事
第五十一章で既に書いたことだが、この半年の間に、愚かながらも筆者の日本書紀解読力は少し増したようなので、改めてこれに触れようと思う。あの時点では、筆者も霧の中にいたのである。
書紀の継体二十五年の記事(賢明な読者には、全くばかげた説明だろうが、この頃は元号がいまだないのである。従って継体天皇の御代二十五年という書き方をするわけである。全くの蛇足と思われるが、これは一度書いておきたかった)にはこうある。
二十五年の春二月、天皇病重く、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年八十二。
ある本に云わく、天皇二十八年の甲寅に崩りましぬと。しかるに、ここに二十五年辛亥に崩りましぬというのは百済本紀から引いてきて文を作ったのである。百済本紀の文に云うには辛亥三月、軍は進んで安羅に到達して、乞乇城を営る。この月に高麗、その王安を殺す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子・ともに崩さりましぬと云う。これによりて言えば、辛亥の年は継体二十五年にあたる。このことの真実はのちに良く考える者が知るであろう。
以上が、書紀の文章であるが、これを読み解いてみよう。国内のある本には継体天皇は継体二十八年甲寅に亡くなったと書かれているが、しかし百済本紀には辛亥、この時に、日本の天皇及び太子(王位継承権のある皇子)・皇子・ともに亡くなったと記事があるので、これが継体王が亡くなった年と判断すれば継体二十五年が辛亥の年にあたるので、継体天皇の亡くなった年と判断したと言うのである。そして言う、良く考えれば後世、この真実が解けるであろうと。(現在の私達にはこのミステリーな語り口は書紀のたまらない魅力ではないだろうか!筆者)
しかし、史料には継体天皇が亡くなった時に、太子も皇子もともに亡くなったという記事は存在しない。それであるのに日本書紀は天皇が死んだという記事と継体天皇の死を強引に結びつけて、継体二十八年に継体天皇が亡くなったと言うことが一応通念であったところを、百済本紀の記事とつじつまを合わせるために継体天皇の死を継体二十五年としたのである。
そう改変しなければどういうことになるだろうか?天皇が二人いた事になってしまう!
実際はこうではなかろうか。継体天皇が亡くなったのは継体二十八年で、その三年前に磐井王が殺された。その三年前は正に継体二十五年で辛亥の年である。その時磐井の君の多くの皇子もともに殺されている事は間違いない。磐井王の後を継いだ筑紫の君、葛子が、何番目の息子か記録がないから、そう考えてもおかしくはない。
と、すれば、百済本紀の描く、天皇・太子・皇子の死は磐井一族の死を言っているという、とんでもない事実がうかびあがってくるのだ。
もう少しくどく言えば、筑紫の君磐井こそは天皇と呼ばれる、その人であったのである。




