135 大和国に勝利した倭国
書紀によれば継体王が毛野臣を発進させたのは継体二十一年の六月であり、磐井王が亡くなったのが二十二年の十二月というから、おおむねの戦役の長さは一年半に及んでいる。書紀では、最期に激しい戦闘があるが、風土記の記事も考えあわせると、大和国は入国早々に磐井を襲ったようである。それから、王を謀略で殺された憤怒の倭国軍と大和国の壮烈な戦闘が続いたように推測できる。というのは当時は、例え敵の王墓であろうと、それを破壊することは許されないことであったのに、大和軍は磐井の王墓を破壊した。これは、勝利する軍の行う事ではなく、滅亡寸前の死に追いやられる兵のやけくその行動とみられる。また戦後、大和軍の得た物は、勝利とはいえない、わずかな土地を得たという、日本書紀の表現は、誇大に勝利を描く書紀にしては実にささやかなものである。つまり、ここからは失う物は多くして、得る物のない、大和の敗北に終わったと考えられる。そして、磐井王族の皇子が生き残ったことも記している。また、物部氏が九州を得たかどうかと云うことも、尻切れに終わってしまっている。(例によって文外にそれを表そうとするのは、書紀執筆官吏の意図するところである)
言うなれば、倭国と大和国の戦いは倭国の勝利で終わったのである。とすれば、書紀の描く、毛野臣の任那への進軍は毛野が大和国の将軍である限りありえないことではなかったろうか。毛野臣は、倭国の将軍であったと考えることが、正当なことではあるまいか。この後も韓地で苦労を重ね続けるのは相変わらず倭国であり、大和国ではなかったと云うのは暴論であろうか。
この戦いのあと、倭国と大和国は和解したとは思えない、両国鼎立の状況が長らく続いたと考えられる。そうした目で書紀を、読んで行くと、隠された真実が徐々に姿を現してくる。以後は、そうした視点の上で、好評だった末松教授の「任那興亡史」を伏線としながら、書紀を読み解いていきたい。