134 大和国倭国に勝てず
任那(加羅諸国)の相談役的立場である倭国の、安羅にある倭国の府(任那日本府と書紀は書くが、どうも嘘くさい名である、せいぜい倭国在韓総事務所と呼ぶのが適当である)は百済が加羅諸国をある意味強引に併合して行くのを黙認していた。百済強化は本国磐井王の意志であったからである。倭国としては、韓地に、高句麗であろうが、新羅であろうが、百済であろうが、統一した強力な王国ができて欲しくはなかった。そうなれば、いずれの日にか強大になった韓の国は海を越えてやって来て倭国を襲う可能性があるからだ。倭国としては高句麗、百済、新羅が三国対立したままで、おたがいの力を摩耗して欲しかったのである。その意味で,新羅の任那併合は、新羅を強力な国家にするものだから、見過ごしてはおけない事態であった。新羅が強大になればつぎの餌食は百済に違いなかった。そして、その次には倭国が狙われるだろう事は間違いがなかった。加羅諸国から手を引きたい倭国であったが、新羅の伸張を見過ごすわけにはいかなかった理由が、ここにあった。
倭国は、書紀が書くようには(書紀での主人公はもちろん大和国になっているが)頻繁に海を渡って出兵したわけではなかった。後述するが、毛野が加羅諸国中枢の安羅において、本国の意思を離れたふるまいが可能であったのは、大体が、加羅の管理は現地官僚に任されていたからである。けっして頻繁に、加羅ー日本 間の交通があったわけではなかったと分析できる。ひんぱんな韓地南端の今の釜山周辺の加羅諸国と九州北端部のあいだの航海と出兵は,負担が多すぎたのであろう。
毛野臣が、この場面で印象的だが、毛野臣が実在したのかしないのか、大和の国の臣なのか倭国の臣だったのか、創作に満ちた日本書紀の裏に隠された真実は書紀執筆者のみが知るところである。
継体王は磐井とその王子、親族などを殺せば倭国は手中に落とせると思っていたが、倭国は王が死ねば滅ぶような、単純な原始的国家ではなかった。中央官僚や地方官僚に代表される中国的な制度が既に出来上がっていたから、大和国軍は磐井を殺害した後、九州や山隂、山陽、四国の倭国地方軍に包囲されて、瀬戸内海からの糧道も絶たれ苦戦しなければならなかった。ついには大和軍は、敗退の怒りのあまり、磐井の墳墓を破壊する暴挙にでた。
書紀によれば継体二十一年六月に近江毛野臣は兵六万を率いて渡海しようとするが、磐井が妨げたとある。ここで毛野は倭軍に戦いを仕掛けられて、進軍が不可能になってしまった。大和国朝廷では、その対策として合議が開かれ、継体王は新将軍として物部麁鹿火を選任して「勝ったら、九州はお前にやるぞ、鋭意がんばれ」と云うのだ。