133 韓地の状況と大和国継体王
国内の状況は上記の様であったが、倭国と大和国が力を合わせて立ち向かわなければならなかった韓地の状況とは実際どのようなものであったのだろうか。
百済が国を強力なものにするために任那(加羅諸国)を侵略しつある。その結果任那の四縣が百済に吸収されてしまった。百済はそれだけで満足していない。百済の最終的な目的は任那全域の吸収にあった。
小さいながらも独立を保っていた任那諸国が、縮小し続ける諸国に危機を感じ、百済に対して反旗をひるがえしたのは当然のことであった。
日本書紀における韓地の行動は、大和国が日本を代表するような顔付きをしているが、ここでの、実際の関与国は倭国であった。日本書紀がどのように、韓地における大和国の活躍を描こうが、継体王が都を転々としているこの時期には、近畿圏は権力争いのさなかにあったのだから、韓地に関わっていなかったと見るのが正しいと思う。書紀の最大目的は倭国が大和国と別に存在していたことを隠す事であるのだから、韓地における日本人(当時そんな言葉はないが)の行ったことは、みな、大和国が行った事にして書かざるを得ない必然性があるのだ。
半分主導権をもっている任那の四縣を手放すことに同意したのは、大和国ではなく倭国であった。諸状況を見るに、百済が任那の領有を願うのは正当なことであった。
高句麗の南下を食い止めるためには、領土を奪われて国力が落ちた百済が任那の土地を得て、再び再生する必要があった。それでなくては、百済も任那も将来がない。
しかし、ここに不測の事態が起こった。百済と新羅両方から侵略されつつある任那に叛乱が起きたのだ。この叛乱は任那王族の最期のあがきといったものだから、百済は危機感を感じて倭国に救援を求めた。この動乱は任那の百済と新羅に対する独立運動だから、このことは未曾有の韓地の動乱に発展するおそれがある。それを期ととらえて高句麗や中国が食指を伸ばしてくる可能性がある。それは百済にとっても新羅にとっても、非常に危険なことではあるまいか。
この出来事を、うまく采配できるのは倭国と倭国の軍勢しかない、ここに百済は倭国に至急の救援を願い出たのだ。この頃は、韓地のことには引腰の倭国だが、肝心な時には兵を出さざるをえない。倭国は大和国に声をかけて、近畿と東国からの出兵を要請する。
しかしながら、大和国にとっては、韓地はどちらかと言えば、所詮遠い国である。韓地がどうなろうと基本的には無関心である。大和国は倭国が韓地の事で、苦労して国力を落とすのを待ちかまえているのである。
この時期、継体王は、やっと大和の平定を終え、大和の中枢部に都を造成し政権の安定期に入っていた。今は継体王の目は倭国の領域である九州や四国、山陽、山陰に注がれている。「全国平定をなしとげ全国の王となるのだ」その思いを成し遂げる機会がやって来たと継体王はとらえた。倭国から、傘下の大和国に出兵の依頼が来たからだ。
「その時が来た。援軍の振りをして倭国中心部に入りそこで兵を興して、いまこそ倭国王磐井を撃ち取ろう」と継体王は決意したのだった。これはいささか敵中で孤立する恐れがある、無謀な考え方だが組織を拡大させる主導者に共通する考え方であって、いわゆる無難な考え方の中に発展は転がっていないのである。継体王が一小国の王から大王になった、たぐいまれな成功者である理由は、この破天荒な物の考え方にあったのだ。