129 浮かび上がってくる倭国
【 年ごとの貢ぎ】が磐井の君に渡っていたことを、日本書紀は、平然と書いている。しかし、このことは非常に重要な事だ。【年ごとの貢ぎ】とは、本国が属国を支配する目的そのものと云っても良いもの、つまり税そのものだ。それが自称、韓地を支配するはずの大和国に渡っておらず、磐井の君の元にわざわざ三国の船で運ばれて来ていることは、磐井こそが倭の王である事を示している。高句麗・百済・新羅・任那が、日本の王を知らず、だまされて、その属国の王に【年ごとの貢ぎ】納めてしまうような愚かな事があるであろうか。ありはしない。書紀は、書中で【献上する船をあやつり、誘導して】と一時的にだまして所得としたように書くが、これは、その時はじまった事でなく、長らく磐井の君の王国の慣例だったのである。
日本書紀が、わざわざ書かなくても良い、貢ぎが磐井の元に行ってしまっていることを書く事には、書紀編纂者の意図が見える。しばしば言及して来たことだが、大和王朝(日本)のほかに倭国があった事を隠蔽することが書紀の最大の目的だが、最下層の編纂官吏には、倭国隠蔽を防ぎたいという気持ちがあって、ヒントのように倭国の影をちらつかせているのだと思われる。これは官吏にとっては大変危険なことだが、史学者として【真実を書きたい】という情熱がそうさせるのだろう。中国では、真実を書いて殺害された史学者は少なくはない事からも推察できる。日本書紀全30巻・系図1巻(系図は失われた)の膨大な書籍を(現代の文庫本にすると、本文400ページ・31冊である!)まとめ上げる才能と情熱は、並大抵の資質の人にできる事ではない。おそらくそのような下層史官が何人も、この業に携わったのだろうが、それらの人々には小説にしても良いような苦悩があったと思われる。近頃の筆者は、この大昔に、このような歴史を書き上げた人々に強い誇りをかんじる。もし私が「コロンブスの様に孤島に一人で生きることになったら、ただ一冊持っていたい本は?」と聞かれたら、日本書記と即答したいぐらいである。