128 磐井王と継体王の戦い
筑紫の国の風土記では、大和の軍は磐井を【ふいに襲った】と書いている。これは書紀の記す、堂々の戦闘と随分違う。書紀では、磐井は戦いの末、亡くなるのだが、風土記では磐井はふいに襲われ護衛の兵も連れずに孤独な逃亡の末、山中に紛れ込み、自らの命を絶つように読めなくもない。磐井を見失った兵は怒って、磐井が、自分のために造成した王墓の飾りである石人、石馬を撃ち壊した。
日本書紀の書くところと、筑後風土記に書くところのどちらが正しいのだろうか?日本書紀はまるっきりの創作である可能性があるが、筑後風土記はどうなのだろうか。
一般に風土記は現在でも、秋田風土記と云ったように、地名+風土記という形で地方案内書に用いられることが多いが、それらと本来の「風土記」との混在をおそれて、本来の「風土記」を古風土記と呼ぶことがある。
これら、古風土記は、元明天皇(在位707年ー715年・女帝)の命により各国の国庁が編纂された主として漢文体の地誌である。郡の地名、産物、土地が肥えているかどうか、地名のいわれ、土地に伝えられている話が記されている。完全に現存するものはないが、「出雲風土記」はほぼ完全な姿で残っている。その他「播磨国風土記」「肥前国風土記」「常陸国風土記」「豊後国風土記」が一部を欠いた形で残っている。その他の国の風土記は後代の釈日本紀のような本に引用されている風土記の逸文によって多少の姿を知るのみである。
釈日本紀で引用されている磐井の君についての文は、磐井の君についての悪口もあるが、おおむね磐井の君に対して同情的であり、磐井の君の最期について【南山峻嶺の曲に終わる】と優しい言葉を持って叙述している。引用された「筑後国風土記」は磐井の君に関する多くの古誌を元として作成されたものであろうから、史実を反映している可能性が高い。とすれば「突然襲ってきた」というのが本当の事であったのかもしれない。この考えを補強するものが、書紀の書く、「筑紫君葛子(ここでは筑紫の君と云っている。磐井については国造と書いておきながら君とよぶのは整合しない。なお古事記では筑紫国磐井の君となっている)、父の罪に連座して誅されることを恐れて糟屋屯倉を献上して死罪を免れた」という文である。いわば、天下分け目の戦いの結論として、狭い屯倉の献上で終わるのは、大和の軍の劣勢を示しているのではないだろうか。
大和の軍の実態は、任那回復の為の協力軍であり、協力軍である故に、大和の軍は、倭国(筑紫の国)の中枢部に入り込めたわけなのだ。その軍が突然、裏切って、比較的防備の薄い、倭国朝廷を襲った。磐井王は、少数の者に守られて逃亡するが、ついに追い詰められて亡くなってしまう。
しかしながら、それを知った、周囲の傘下の国々の連合軍は、息子の葛子の先導のもと凄まじい反撃に出たのである。ついには追い詰められ滅亡寸前の大和の残兵は怒りの赴くままに、聖なる王墓を破壊したのだ。(王墓は神聖なものである。敵の王の王墓であってもけっして破壊してはならないものだ。王制はたとえ血筋の繋がらない異国の王であろうとも王であることが尊敬される上に成り立っている。異国の王の墓をむやみに破壊する様なことが許されるなら、それは王制度の崩壊に繋がる)これから考えると磐井の君の墓を破壊したのは。勝っている兵ではなくて、追い込まれた兵と考えられまいか。もう自分たちは倭国の兵に包囲されて死ぬしかないのである。その怒りを、墳墓破壊という暴挙によって晴らそうとしたのであるとかんがえる方が話が繋がるのである。
それ故、この戦いは書紀の記すような、倭国の終焉を以て終わらず、相当の年月、大和王朝と倭国の共存の結果を残したと考えられる。