127 磐井と継体の戦い
また、継体天皇が麁鹿火の出陣に際して、「長門以東朕制之。筑紫以西汝制之(書紀原文)」と云ったという。つまり「長門以東は朕、これを制す。筑紫以西は汝、之を制す」という意味だ。「制する」と言う言葉には制圧するという意味の他に支配するという意味がある。これを制圧と読んだ場合は「長門より東は私が制圧する。筑紫より西はあなたが制圧しなさい」となり、すでに支配しているはずの長門より東が被支配地域となってしまう。それではと、支配という意味に取ると「長門より東は私が支配する。筑紫より西はあなたが支配しなさい」となり、文としては、後の文章のほうがまとまっている。しかし、ここには重大な謎が含まれている。磐井は既に、国の造として大和王朝の官吏である、つまり形の上では官吏の不正を摘発するだけなのであるから、「官を奪って、罪をあたえよ!」ぐらいの言葉であるはずであるのに、この言い方はあたかも非常に強力な他国と一戦を交える時に、自分の将軍に「勝ったらそこはお前の国として与えよう」という高くつく約束をしなければならぬ苦境にある王のようである。
それが恐らく継体王の状況だったのだろう、その前の言葉でわが国の存亡はこの一戦にあり!見たいな言い方をしているのだから。
書紀でどのような物語に作ってあろうが、一地方国王である継体王は、このころになってやっと安定した中央王権を手にしたばかりのようだ。なぜならば数年ごとに都を移動させて転戦をくり返していた様子が書紀から読み取れるからである。一応は近畿圏で勝ち残った継体王であるが、それでもなかなか中枢部の大和に近づけないありさまであった。そんな、継体王に正面激突のまとまった軍勢がだせるわけがない。それで将軍に特別な条件を出して出兵させる事となるのだ。
ここで、将軍は物部の鹿麁火に告げているのだが、なんと麁鹿火は、自分の家系の功績を述べるのに、大伴氏の先祖二人を引用しているのが非常に奇妙である。そのことを考えてみると、書き換えられる前の原文には将軍名として大伴金村の名があったであろうことが容易に推測される。
なぜこのような改変が行われたのだろうか。日本書紀の作成には藤原不比等が深く関わっているのだが、実は、その父の鎌足の母が大伴氏の娘大伴智仙娘であって、当時、すでに歴史的に不評であった、任那の四縣譲与が、自分に影を落とすのを恐れてということだろう。それでその責任者を大伴氏から物部氏にすりかえてしまったというのが実情ではないだろうか。物部の詹鹿火が四縣分与の使者として渡韓しようとするのを妻に強く止められるという記事もいいわけめいている。これもおそらく、後から付け加えられた文章であるに違いない。藤原不比等は、既に歴史の中に霞んでみえなくなった事象をも、少しでも自分に有利なように書き換えるぬかりない男なのである。