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126 倭国の撤退

 上記の記録と長く読んできた末松氏の「任那興亡史」、また書き連ねてきた筆者の様々の検証を重ね合わせて考える時が来た。


 「任那興亡史」は、難解ながら沢山の優れた考察を持つ、著作だが、その根本姿勢は、日本書紀、記事の真実を疑うことはない。まだ「天皇」という称号もなかった六世紀初頭の大和王朝の大王に天皇・日本という言葉を疑いもなく使用するのは研究の成就のためには、誠に残念な事だと思わざるをえない。

 しかしながら、それでもなお、韓地への豊穣な知識は、韓国の当時の情勢を克明に浮き上がらせてくれる。このような、研究内容が、難解で、一般の読者、特に若い人々に理解しがたい現状は、放置されたままである。あらたな注釈書なりを、廉価な文庫本として出版されることを、出版界に望みたい。

 こうした事情は他の歴史書にもいえる。韓国の唯一とさえ言える歴史書、「三国史記」も、全編の出版ではなく倭国関連記事だけを抜き出した三国史記・倭伝として文庫本化されているのみである。


 さて、高句麗に侵略された百済は、南下して任那の諸国を侵略しようとする。それを防ごうと任那諸国は新羅に婚姻策などで接近するが、立場の弱さを見られてしまった任那諸国は新羅にも狙われることになる。ここにいたって、この情勢は元来任那において鎮守府をおいて、顧問のような立場であった倭国の手に負えなくなってきた。度重なる倭国本土からの出兵は、「年ごとの貢ぎ」があっても倭国の国富を貧しいものとせざるを得なかったに違いない。

 任那の百済への割譲は、日本書紀が書くような、大和王朝からの割譲でなく、主に九州中心の王朝である倭国が任那の植民地支配をあきらめたという事ではあるまいか。倭の支配が三国に及んでいたいたことは、「税【年ごとの貢ぎ】を磐井が独占していた」と書紀自体が表明していることでも判断されよう。


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