125 磐井討伐
「筑紫の磐井はそむき国を不法に占拠して、西の田舎の国で居座っている。いま、だれか将となって討つものはいないか」と。大伴の大連等は言った。「正当に、兵事《つわものの事》に通じるのは、今、麁鹿火の右に出る人はありません、その詹鹿火はいかがでしょうか」と。天皇は「それをゆるす」と答えた。
秋八月一日継体天皇は「麁鹿火の大連よ、磐井は従わない、汝が行って討て」と言った。大連は拝んで言う。「その磐井は西の田舎のずる賢いやつです。川が障害になっていることを頼りとして朝廷に仕えず、山が峻厳なので乱を起こしました。徳を破って道にそむき、天朝を侮りおごって自分を賢いと思っております。その昔、道臣(神武天皇に仕えた大伴氏の祖)から、今の室屋(大伴金村の祖父)まで君を守り戦い続けてまいりました。(春野註・物部氏である麁鹿火があたかも自分が大伴氏であるかのような言い方をしてひどく変である。よって、この文は大伴金村が述べた事であったのが原型だったのだと考えられる。どうした事情でそうなったのか後で考えたい。)悪政から民を救う事は昔も今も大切なことです。天皇のおっしゃる事は臣が一番大事にするところですから謹んで征伐をお受けいたしましょう」
天皇は更に言う「良将の軍を律することは恩を施して尊敬を増し、自分を抑えて人を治めるようだ。それでいて攻める事は川が決壊するような勢いであり、戦う様は風が吹きおこるようだと言う」そして「戦う大将は民の命だ。国・家の存亡は、今この時にある。心してかかれ、そして賊に天罰を与えるのだ」と。
天皇は自ら、まさかりを取って大連に授けて言った。「長門より東を私がとる、筑紫より西をば汝とれ。賞罰をしっかり行い、連絡を密にすることを忘れるでないぞ」と。
継体天皇22年冬十一月 物部の麁鹿火は、自ら賊の師、磐井と筑紫の御井郡(今の福岡県三井郡)に相戦う。両軍の旗が林立し軍鼓がけたたましく鳴り響き、その土埃で戦場は霞んだ。
両軍は勝機を捕らえようと一歩も引かず、累々と死者が出ても、なお戦闘をくり返した。しかしながら、遂に決着が着いて磐井は斬られた。
十二月 筑紫の君葛子父の罪により連座して誅(殺害)される事を恐れて糟屋屯倉を献上して、死罪からまぬがれた。
以上が、日本書紀の伝える、「磐井の叛乱」のすべてだが、鎌倉時代に作成された日本書紀の解説書「釈日本紀」には、磐井の記事が記載されている。この書には、逸文として、今は残されていない「筑後風土記」が載せられている。以下は、その逸文である。
筑後の風土記 上妻の県。 県の南二里、筑紫の君、磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈。敷地は、南北六十丈、東西四十丈。石人・石盾(石で彫られた人・盾)各六十。行列を作って周囲を囲んでいる。東北角に一つの別区があり、号して衛頭と云う。衛頭は政所なり。その中に、一石人あり、縦容として(ゆったり、堂々として)地に立てり。号して解部と云う。前に一人あり、裸形にして地に伏す。号して偸人と云う。猪を盗んだのである。そばに石で彫った猪が四頭ある。贓物と号す。贓物とは盗み物なり。この近くに又、石馬三頭・石殿三間・石倉二間あり。
古老の伝えて云う。雄大迹天皇の世にあたり、筑紫の君磐井、豪強暴虐、皇風に従わなかった。生きている時に、あらかじめこの墓を造った。俄にして官軍動発し、襲わんと欲するの間、勢いの勝たざるを知り一人自ら豊前の国に逃れて、南山峻嶺の曲(南の山の高い嶺のほとり)に終わる。ここにおいて、官軍追尋して後を失い、士怒り未だ止まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落としき。古老伝えて云う、上妻の県、多く篤疾(重い病気)有るは、これによるか。