122 任那興亡史
(書紀・継体天皇10年の條)また別に五経博士・漢高安茂を貢り、それまで滞在していた博士段楊爾に換える事を請い、請いのまま許された。
百済はこの年、また別の使者とともに高句麗の安定らをそえて、来朝し、交流した。(高句麗の使者が日本に来た記録の始めである)
その後10年、任那の事情は不明である。従って日本と百済の事情も知ることができない。知ることができることは、523年5月・百済武寧王が薨じ(在位23年)聖明王が立ったことだ。このような事情の不明は情勢の発展がなかった事を意味するものでは、もちろんない。
むしろ、この不明な10年間に最も大きな事があった。百済が四縣を獲得し、さらに己汶・帯沙を領有したことに対する反発として加羅と新羅が接近し、加羅の一部が新羅と合体あるいは侵略され、新羅が拡大したことである。
加羅諸国が日本から離れ、新羅をたよりにしようとしたことの端的なあらわれは、加羅の新羅を相手とした通婚政策である。522年春3月、加羅の一国王は新羅に通婚を申し送った。新羅はその請いに応じて新羅の伊飡比助夫の妹を送った。(三国史記)
ここで言う、加羅の一国王が、さきの伴跛国王か後に大加羅と呼ばれる国の王かはっきり解らないが、朝鮮資料では大加羅国とすべきだと言うようである。送られた女については書紀・継体23年の條に「新羅王の女」となっている。前記したように、伴跛国を中心とする加羅(任那)は一端は新羅攻撃の態度に出たが、新羅の実勢力を認めて、これと提携し、百済の東進を防ごうとした。これはある意味で加羅が新羅への帰属を了承したということであった。