120 任那興亡史
百済の進出は、四縣の領有で完結したわけではない。続いて翌年における己汶・帯沙地方の要求となる。
(春野註・ここからの末松氏の筆記は書紀・継体7年夏六月の條による)513年夏六月、四縣割譲の責任者、穂積臣押山(百済本記によれば委の意斯移麻岐弥であると書紀中に註あり。・・・書紀では委にヤマトとふりがなを振っているが、委は倭と読んだ方が適当ではあるまいか!・春野記)は、その預かっていた哆唎国が百済領になったためであろうか百済の使者とともに帰朝した。百済はこの時五経博士(儒教と漢文古典に堪能な者)段楊雨を送り別に奏上して言った。
「伴跛の国は吾が百済国の己汶の地を略奪しました。天恩と判断によりもとの国に戻してくださる様、伏して願います」
(末松氏・書紀・継体七年十一月の條を引用)冬十一月朝廷に百済・新羅・安羅・伴跛の使者を朝庭にひき連ねて、己汶・帯沙をもって、百済に与える旨のお言葉があった。同じ月、伴跛は使者を遣わして珍宝を献じ、己汶の地を請うたが、遂に賜らなかった。
前年における四縣割譲は、任那の歴史からいえば、劃期的退歩の事件であるが、このような事が実現したと言う事は、また相当な理由のあることであった。百済にはこのような重大な請求を提出しうる力が備えられたからであり、請求しないではいられない情勢に到達したからであり、日本には、その請求を受け入れねばならない実情があったからであり、受け入れられる状態にあったからである。
百済にこのような請求をなさしめるものは軍事力というより、文化力にあると言わねばならない。ここに史上はじめて登場する五経博士の到来は、それを示すものである。百済からの文化の輸入、文化人の到来は、従来すでに久しく続けて行われていたであろうが、ここに至って飛躍した。五経博士は、いわば前年の四縣割譲の代償であるといえる。百済からの文化輸入は、五経博士の到来をもって一期を画し、企画化されるのである。
百済は伴跛国の己紋略奪を訴えているが、これは形を変えた已紋割譲の請求といえる。すなわち伴跛云々は文献上の造作に過ぎないと思う。当時、伴跛は任那諸国(加羅諸国)北部の代表的勢力であったと思われる。ゆえに伴跛と百済の領土争いは、単なる両国の戦いではなくて、任那諸国(加羅諸国)と百済との戦いと見なければならない。




