12 隋書に書かれた倭国
一人の女がおり、卑弥呼と名付けた。鬼道にたけており衆を幻惑の中において誘導していた。そこで諸国の主立った者達が共同して卑弥呼を王として立てた。卑弥呼には弟がいた。卑弥呼を補助して国を治めさせる。その二人に侍る女が1000人いたが、女王の顔を見るものはほとんどなかった。しかし男二人が女王に食事を用意し、弟君に言語を伝えたようである。その王家には宮殿群と望楼と、それを取り囲む城柵があった。兵士多くが城柵に付いており守衛していた。又、法を作って法を厳しく守らせた。 隋の開皇(隋の高祖、文帝の年号)20年(西暦600年)倭王がいた。姓を阿毎名を多利思比孤阿輩雞弥《おほきみ?》と号した。使を隋都、長安に遣わした。文帝は担当の司にその風俗を問わさせた。使者が言う「倭王は天をもって兄とし、日をもって弟とする。夜明け前に起き出て司の申し述べることを聞き、跏趺(座禅する時の座り方、あぐらとは違う。右足を左のももの上に左足を右足の上に乗せる、お釈迦様が行を行ったときの神聖な座り方)座し、日が出れば政事からおりて、我が弟に委ねると言う」文帝はこれを聞き「変な話だなあ」と言った。そして倭国にそれを改めさせた。倭王の妻は雞弥《きみ?》と号した。後宮に女が6~700人いた。太子(跡継ぎの王子)を利歌称多弗利と名付けた。 官位に12の等がある。1位は大徳、次は小徳、大任、小仁、大儀、小儀、大礼、小礼、大智、小智、大信、小信であり、員数に定員はない。軍尼が120人おり、軍尼は中国における小国主と似ている。80戸に一人位尼翼を置くが、中国における里長の様な者だ。10位尼翼が1軍尼に属する。