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119 任那興亡史

 物部大連麁鹿もののべのおおむらじあらかい難波なにわの客舎に赴いて、百済の使いに、勅宣みことのりを伝えようとした。しかし、その時妻が強引に押しとどめて言った。

「海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などの国は、住吉の神が応神天皇に授けて政治を委ねたところです。それゆえ、神功じんぐう皇后と大臣武内宿禰(たけうちすくね)は、それらの国ごとに初めて宮家みやけを置いて海外の蕃屏はんべい(垣)とされ、長い年月を経て今日に至っているのです。もし今、いて百済に与えるならば、もともと定められた区域と異なることになり、後世のそしりをまぬかれません」と。

麁鹿あらかいは答えて言う。「教え示すことは、まさしくその通りだが、天皇の命にそむくわけにはいくまい」妻は更に言う。「病と申し上げて、お使いをお断りなされませ」麁鹿あらかいは遂にその言葉に従った。

 そこで天皇は使いを改め、他の者にちょくを宣して(命令して)使者となし、任那の四縣を百済に与えた。勾大兄の皇子(後の安閑天皇)は、この四縣を与える評議に参加できなかったため、事後に至ってこれを知り、驚き悔いて改めさせようとして言った「応神天皇が宮家を置かれた国を他の国が言うがままに軽々しく他に与えることはできない」と。すなわち、別の使いを難波なにわに遣わして、その旨を百済の使いに述べたが、既に勅は伝えられていて取り消すことはできなかった。


 四縣を割き与えることが重大であったことは、上記の大げさ過ぎるような、あたかも任那がなくなってしまうような表現から推測できる。従来は、割譲される四縣について、非常に狭い範囲に考えられていたというのも【四縣】という縣の文字にこだわったからだろう。、四縣の地が実際はどうであったのか考えてみる余地がある。四縣割譲の重大性は、その上で再確認されるだろう。

(中略・この後4ページに渡って、4縣の地域を検証する記事が続く)・・・要するに、512年百

済に与えた四縣は従来言われていたような狭い地域ではなく、少なくとも今の全羅南道の西半分を占める(春野註・九州の半分ほどの地域)広大にして重要な(春野註・ほとんど農耕に適した平野部分)地域なのである。それが名目上は割譲、譲与という形になっていたとしても、任那と百済が487年帯山城で戦っているのであるから、実質的には百済の任那侵略といわねばならない。そして百済の進出はこれだけに留まらなかった。


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