118 任那興亡史
これは、もとは百済の百姓であったが戦乱などで、任那に逃げ込んだ者を三世代・四世代に渡って調べだし、旧地に戻し、再び農耕民として租税の下におこうとしたものである。返された農耕民の数はすこぶる多かったであろうと思われる。このような大がかりな事が行われ得たのは、百済の実力の表れであり、一方で倭と任那の力の衰えを示すものでなくてなんであろう。
百済の任那進出の第三歩は任那の衰退をほとんど決定的なものにした、これより三年後のいわゆる四縣割譲である。(以下、書紀、継体天皇六年の條)
512年夏4月、倭国は穂積臣押山を百済に遣わして、筑紫の馬40匹を百済に贈った。押山は、百済への単なる使者でなく任那の哆唎国主として新任された者のようである。
冬12月、百済は倭国に使いを遣わして貢調(貢ぎ物を献上)し、別に上表(君主に文書を提出すること)して任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を与えられることを請うた。穂積押山は奏上して言った。
「この四縣は、近く百済と交わり、遠く日本を隔たる。両国はあした、ゆうべに通いやすく、犬も鶏もどちらの国の所有だかだかわからないほどであります。今、百済に贈って、百済と同じ国とするならば存在策として、これに優れるものはないでしょう。しかしながら国を合わせても後世にはまだ不安が残ります。まして、別にしておけば何年も良く守ることはできないでしょう」と。
時に大連大伴金村は、現地当局者としての、押山の意見に同意して、大連物部麁鹿火をもって勅宣(天皇の言葉)を伝える使いにあてた。