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117 任那興亡史

 上哆唎以下四縣の割譲


 百済南進の趨勢は、その後十数年にして、任那の直接の問題となった。その第一歩は508年における百済の耽羅たんら島(済州島)征服である。508年はわが継体天皇の2年にあたる。書紀のその年の條に

「十二月、南海中の耽羅人、初めて百済国に通う」と、見える。こともなげなこの記事は、百済の全羅道経路が、その陸地部分で、一応終結して、今や海を渡って耽羅島にまで到達したことを示したものと見なければならない。韓地の資料たる三国史記では476年に「耽羅国が方物(地方産物)を百済に献じた」と言うのが、耽羅に関する叙述の初見であり、498年に「耽羅が貢賦こうふ(貢ぎ物と税金)を修めざるをもって、王は親しく(直々に)武珍州に至る。耽羅これを聞きて遣使乞罪(使いを遣わして罪の許しを乞う事)し、すなわち王の進軍は止んだ」とあって、百済と耽羅との関係は書紀にある508年に必ずしも始まると言えないが、書紀の記述は南海中の二字が暗示するように、もとは百済古史書による事は疑いなく(春野註・南海中は韓国から済州島を見た視点である。書紀の文が、日本の位置から書かれたものとすれば南海中という叙述はありえないと言うことだろう)、そうと考えれば、それは従来から定説であった関係を覆すものだ。百済の積極的な圧迫による耽羅の服従が508年に成立したと見ることによって508年の書紀の文書が生きてくるのである。


 翌509年、百済の任那への進出は第二歩を進めた。書紀の継体天皇三年紀に「春二月、使を百済に遣わし、任那の倭の縣邑(県村)にある百済の百姓にして、浮逃してを貫(税金)を絶えて三・四世になる者を抜き出すとともに百済に戻し、貫に付けしむ」と、あるのがそれである。

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