116 任那興亡史
任那の衰微、倭国勢力の後退の第三の表れと見えるのは、百済の南齊への通交である。すでに記した通り、372年東晋に朝貢してから後、471年に至る、ちょうど百年間もっぱら南朝の宋を相手国としていたが、472年高句麗牽制の直接の効果を求めて、はじめて北朝の魏に入朝し、助兵を求めた。しかし、その効果はなかった。
百済の中国通交で一貫して変わらなかったことは、代々の王が、中国の称号を得ようとしたこと・得たことである。その中で変化があったと言えば、宋・大明二年(458年)十一人の臣下に、冠軍将軍以下の将軍号を授与されるよう請うている事である。
このような臣下の号の授与は倭国王が宋へ二回(438年に倭隋以下十三人、451年に二十三人)試みた実例があるのみで、高句麗にも新羅にもないことである。すなわち当時、東方諸国一般に見られるものではない。それなら特別な意味が百済と倭国の場合に見いだされるか。
その一つは、宋に入朝したときに臣下が特別の待遇を得られることと、倭国内において、それらの臣下の権威が人民に対して保たれると言うことである。私は百済の場合も倭国の場合も後者の事が主な目的であったと思う。百済の行政制度の特徴は、全国を二十二国に分け、それを王族に分けて統治する点にあるが、その権威を飾るために、中国の認定を求める形が採用されたのではないかと思われる。その後、南齊朝になると、百済は要求する称号に、地名を入れることを加えるようになる。
臣下の肩書きに、地名を付した最古の例としては472年北魏に使として出た餘禮が【私署冠軍将軍駙馬郡尉弗斯候長史】と称号を得ている事だ。弗斯(pu-sa)は魏誌韓伝に載る、馬観五十余国の一つ不斯濆邪国と思われるが、これを初めとして、称号に地名が付くようになる。(春野註・末松氏は続いて地名が付く、称号を八点あげられ、その地名がどこであるか検証しているが、ここでは略す。)
これら八カ所の場所がどこであるか確定しがたいが、検証の結果を見れば、だいたいは、北は全羅北道の西北部の一群からはじまって南は全羅南道の南部沿岸の一群を終わりとしていることに気付くだろう。
当時、百済は都、漢城を失って、熊津を新都としたが、地名がそれ以前の失った北部領地を含まず、南部に偏っているのは、この称号が実際の領地を表しているものと考えられる。これらの土地は、もともとは任那の土地であったが、今は新しく、任那から奪って、百済の占領地となったのだ。それを確定のものとするために、中国の称号を利用しようというところに百済の底意があるのである。