115 任那興亡史
倭からの中国通使が途絶えた事情を示す出来事が二つある。
その一は南齊書・東南夷傳に載る建元元年(479年)における加羅国王・荷知の南齊遣使の事実だ。この記事に加羅国王・荷知の使いが入朝し、輔国将軍(南齊を補佐する将軍・春野註)加羅国王の称号を授けられている事が見える。
これは加羅国王の名が中国の史書に見えたはじめであり、又終わりである。この加羅国王の正体は、全く捉える事ができないが、どうであろうとも、加羅の一国が、独自の外交を試みたものであることは否定されない。倭の支配が強い間は、このような通交は行おうとしても許されない事であろうから、この年の
遣使は加羅国の独立性の成長と、倭国の統制力の衰弱を示すものである。
その二は書紀の顯宗天皇三年(487年)の記事である。それにはこうある。
「この年、紀生磐宿禰は任那をまたがり支配していた。高句麗につながり、三韓の王となろうという野望があり、宮と司をを整え、自らを神聖と称した。任那の左魯らの計を用いて、百済の官吏を殺し、帯山城を築いて倭からの東道をさまたげ、糧食搬入の港を封鎖して、軍(たぶん、百済軍・春野註)をして餓え困らせた。百済王は大変怒り、軍師らを遣わして帯山城を攻めさせた。紀生磐は向かってくる敵を、全て滅ぼしたが、ついには兵つき、王になることができぬと悟り、任那より倭に帰った。それで百済は紀の軍兵三百余人を殺した。」
従来、この記事は紀の反逆事件として読み取られていたが、事の真相は帯山城の争奪にある。この記事の文中にある、人名や地名から判断すると、この記事のもとになるものが、百済史料であることは間違いない。この記事は百済の帯山城攻略を正当化しようとする、百済史家の書き換えに過ぎないのではないだろうか。むしろ紀の執政は、任那の勢力挽回を目指したものと考えられる。百済が高句麗の圧力によって、南下させられ、任那の地を奪おうとするのに対して、任那は対抗し百済と任那のあいだに戦闘が起きた事を示している。(春野註・この状況には、倭・任那の手ひどい敗退と勢力の劣化が描かれている。倭国のこれ以降の中国派遣が閉ざされたのは、これらの戦役による、倭国の富と力のひどい劣化が原因と末松氏は言いたいのだろうが、氏の著述はひどく難解であるので、浅学の私には良く文の意味がとれないきらいがある)