114 任那興亡史
高句麗は平壌遷都(427年)50年にして一大南進行動を起こした。しかしそれが突然のものでないことは472年に百済が北魏に送った文書(魏書百済国伝載)によっても推測される。
北魏は百済の求めに応じなかった。それより5年後の475年の冬、高句麗は大軍を出して一挙に百済の都城(漢城)を攻め、百済国王以下を殺害し、百済は、いったん、滅亡する。
書記の雄略20年の條に引用する文、「百済記」には、この事件の事が次ぎのように書かれている。
「蓋鹵王の乙卯の年の冬、高句麗の大軍が来て大城を責めること七日七夜、王城は陥落して都を失ってしまった。国王および大后・王子ら皆、敵の手に死ぬという」
書記の本文には「冬、高麗王(高句麗の王の事)、大いに軍兵を興して打って百済を滅ぼした。少しばかりの遺衆があり倉の下に集まり、たむろしていた。兵糧はすでになくなり、憂いの涙は大変深かった。高麗の諸将は高麗の王に請うた。『百済の心は計り知れません。臣らが見るに、思わず騒然としてしまうほどです。百済は、恐らくまた蘇生することでありましょうから、最後の一人まで打ち払うことをお許し下さい』と。高句麗の王は言った。『寡人(小人物とでも訳す・高貴な人が自分を謙遜する言葉)聞くに、百済の国は、日本の宮家となって、その由来遠く久しい。また、百済王は、倭の朝廷に参内して天皇に仕えることは、四隣の知るところでもある』と。それで、遂に打つことを止めて帰った」
百済の都城の陥落は、それより百年の昔、371年の百済の北進の戦いにおいて故国王を失った高句麗が、その仇を完全に報いたものであるとともに、高句麗の南進の歴史において画期的なものであった。
漢城陥落の結果、百済は南方三十余里、熊津に退いて新しく都城とした。これは一端は滅亡した百済の再興に他ならない。
書紀は百済陥落の翌年の條(雄略天皇21年紀)に「三月、天皇、百済が高句麗のために破られた事を聞いて、久麻奴利をもって汶州王に賜い、百済国を救興させた」と記している。この表記は、潤色に過ぎる。百済・倭国連合勢力にとって、それはそのような華々しいことでなく、一種の敗退・縮小であったことが読み取れる。
百済・漢城の陥落は、413年以来続いていた倭国の南宋への通行を途絶えさせるという結果をもたらした。倭の武王が南宋へ送った、壮絶な長い文書を叫びとして、それ以降120年間、倭の中国通交が途絶えてしまうのである。