113 任那興亡史
この交流は雄略天皇の時代も続く。
雄略8年二月、身狭村主青・檜隈民使博徳(粗暴な雄略が大事にする二人である。朝廷の書記官で、いずれも朝鮮系漢人)を呉国に使者として出した。
雄略10年九月 青ら、(恐らく博徳も同道)呉国の贈る二つの鵞鳥を持って、筑紫に至る。この鵞鳥、水間の君の犬に嚙まれて死んだ。そのため水間の君は恐れ愁い、黙っていることもできないので鳥十羽と鳥飼の者とを献じた。それで天皇は許された。
呉国との通交は、どこまで行っても伝説的である。しかしこれらの記事の裏には、事実が隠されている。それは頻繁な文化交流があったと言うことである。
卑弥呼の時代(240年代)のから途絶えていた歴史的記述が413年に復活する。413年に至って、倭国は東晋に入朝する。これは好太王が任那加羅まで進軍した年から13年目にあたる。413年から以降ほぼ百年にわたって、連綿と中国との交流が活発になり、266年以前を日本・中国交流の第一期とすれば、この413年から500年に至るそれは第二期として一括されるだろう。
第二期の間、13條の通宋の記事に一貫しているのは倭国の宋に対する称号の願いである。この背景にあるのは、常に高句麗に対する示威であったと言えよう。称号をもって、高句麗の南下策を阻止しようというのが、そのねらいであった。武王の478年の遣使にあたっての宋国にたいする以下の上表文には、最も悲痛なるもの、対宋通行五十年の総決算とするにふさわしい気持ちが表れていると見ることができる。
我が国はあまねく遠く属国を国外に作り、祖先みずから甲冑を着け、山川を越え渡り、いたるとこる常に暇なく、東は毛人を征する事五十五国、西は衆夷(種々の野蛮な族)を服すること六十六国、渡りて海北(日本海を渡って北)を平らぐる事九十五国(春野註・この表記は、倭国の中心を博多周辺とする時、妙に日本列島に符合する表現ではないだろうか)王道はむつまじく平安であり土地を耕し、国の田畑を広大なものにしました。代々中国に朝貢することを絶えさせる事はありませんでした。臣は愚かながらも、かたじけなくも、先人の事業を継ぎ、従えるものを駆り率いて、太陽がきわまるところに集め、ついには百済を経て、今はもやって、朝貢のために船の装備を調えました。ところが高句麗は非道であり、他国を飲み込むことを計って、辺境をかすめ取り、人を殺して止みません。又、つねに交通を妨げようとするので、交易の為に通行を妨げないという良風がすたれ、道に出ても、通じたり、通じなかっりしているのです。臣の亡父、済は、高句麗が天朝(宋の事)に通じる道をふさぐのを怒り、弓兵百万が正義の声に感激し、今まさに立ち上がろうとしたところ、にわかに父、兄を失い期を逃してしたのです。今になって、やっと装備を調え、兵を訓練し、父兄の志を伝えることができる状態となりました。今や白刃が目の前で交わろうとも怖じける事はありません。この敵を打てと命じなされるならば、従いましょう。
この倭王武の上表文の裏には痛ましい現実があった。この上表文が宋に到達したのは、百済が高句麗との激烈な戦いの果てに都を奪われるという決定的な黒星をつけらた時から三年後の478年である。百済・倭国は遂に、長年の敵、高句麗を破ることができず、決定的な敗北となって終わった。