112 任那興亡史
応神天皇16年春二月、王仁来る。太子菟道稚郎子、師として諸々の典籍(書物)を習う。八月平群の木菟の宿禰・的戸田の宿禰を加羅に遣わす。これによって精兵を授けて言った。「襲津彦が久しく帰らずない、間違いなく新羅人の妨げによって、滞留しているのであろう。汝等は急いで行って新羅を打って、その道を開きなさい」と。
宿禰等が新羅の国境にくると、新羅王は、その罪に服して、弓月の人夫を率いて襲津彦とともにやって来た。
応神天皇20年秋九月、阿知の使主がその子、都加の使主とその党類17縣の者を率いて戻ってきた。
これらの記事が、そのまま事実の記録とすることはできないものである事はいうまでもないが、大まかに言うと、百済の肖古王・貴主王から始まった人物を貢いだり、渡来したりすることが、好太王との抗戦後
(5世紀はじめ)ますます盛んになったことを暗示するものと思う。人物の交流は、その後も七世紀半ばまで続くのである。
人物の輸入は、最初に、工人の部門において発展する。やがて百済の工人に満足せず、中国=呉国の工人を招く事となる。
応神天皇37年春二月、阿知の使主と都加の使主を呉国に遣わして縫工女を求めさせた。
応神天皇41年二月、阿知の使主ら、呉より筑紫に致る。時に駒形の大神神社が、工女などを乞うた。それで長女の姫を大神に奉った。これが、今の筑紫の国の御使の君の祖である。そして二女、三女をもって津の国に至った。