110 任那興亡史
百済関係の発展
西暦405年、倭から帰ってきて王位についた腆支王は420年に薨じ、その子久爾辛が即位した。このことについて日本書紀・応神天皇25年紀に「百済の直支王(腆支王)薨りぬ。すなわち久爾辛立ちて王となる。王、年おさなし、木満致、国政を執る。、王の母と相淫けて(性的関係を持ち)多く無礼を行う、天皇聞しめして、召し(よびもどし)たまう」とある。この年は甲寅にあたり、かつ前後の百済関係の記事から推測すると、西暦414年にあたる。しかし、その年は「三国史記」の伝える晪支王の薨年6年前である。どちらが正しいのか、すぐには決めがたい。
先の書紀の本文には、次のような分註を伴っている。
「百済記(春野註・三国史記中の百済本紀とは別のものであり・失われた百済国の古史書名である)に云わく、木満致は、軍師、木羅斤資(岩波、書記註・木羅は木刕とも書き、百済の有名な姓氏)が、新羅を打ったときに、新羅の婦を娶りて(妻として)生んだものである。木満致は、その父の功をもって、任那において専横な力をふるっていた。百済に入国してからも、倭国と通行し、天皇の意を受けて我が百済国の政を執る。勢い世にあたり、しかるを天朝その暴を聞こしめして召す(呼び戻す)という。」
上記の、文に見える、「任那」の二字は、かの好太王碑の「任那加羅」に次ぐ重要な文字である。これによって「任那」がこの時点で、加羅諸国に於いて、任那を中心とした政治圏の中心となっていることが判断できる。そして、任那の政を執るものが、百済の政治にいかに関与したかについて、又とはない推察の重要資料を提供していると言えよう。