109 任那興亡史
ここに難をまぬがれて生き残った高句麗人が一人いた。隙を見て、逃れる事ができ、高句麗に戻って、前記の次第をつぶさに説いた。高句麗の王はただちに軍兵をおこして筑足流域に陣を張り、歌舞・音曲を催した。
夜、王城の周囲、四方から 高句麗軍の歌い舞うを聞いて、賊軍がことごとく、新羅の地に入ったことを新羅王は知った。それですぐに、人を【任那の王】の(書紀註・どの任那の王か不詳)もとに遣わして云う「高句麗(註・書紀原文では高麗)の王が、我が国を征伐する。新羅は、今や(縦に細長い軍旗のように)高句麗の思いのままに打ち振られている。国の危ういことは卵を幾つも重ねたようです。この先、生きて長らえるか、死すか、全く解りません。伏して救いを日本府(春野註・書記原文に・日本府あり)の行軍元帥等に請い願います」と。
そこで、任那の王・膳臣斑鳩は吉備臣小梨・難波好士赤目子を進軍させて、新羅を救援させた。膳臣が、まだ到着せず、営にとどまっているとき、高句麗の諸将は戦わずに恐れた。高句麗と対峙して十日余日、夜間には通行が難しい所を打ち崩して、下の道を造って荷車と兵を通した。曙に高句麗は任那が逃げたと思った。出兵して追って来たところを、奇襲して、これを撃った。(高句麗と新羅の憎しみ合うのはこの時より起こった。)
膳臣らは新羅に語って云った「汝のような一番弱い者が、一番強い者と戦った、任那がもし救わなかったならば、必ずやられてしまって、人の国になったであろう事は、この戦いの結末であったはずだ。今からのちは倭国に逆らうべきではない」と。
この記事は、非常に説話化されていて、数年から十数年に渡ったと思われることがらが、一條にまとめあげられてはいるが、この記事の重要な事は好太王碑の西暦400年以降の半世紀における高句麗と新羅の関係、任那における倭の勢力の有様と、新羅の関係、などがまとめあげられている点にある。
以上、好太王の南下以来の高句麗軍の新羅への駐屯・高句麗の新羅占領の野望との戦い・高句麗の新羅包囲・任那の救援隊と50年ほどの推移であり、倭国がどのように迎えられたかの平明な描写だが、これらの歴史推移は、当然、新羅の倭国への一方的な救援の願いと云うより、高句麗から新羅を離反させるために倭国が様々に働きかけた事の成果という側面もあるのだ。