108 任那興亡史
高句麗の南下は高句麗国にとって第一の歴史的課題であったといえる。新羅を救援したことも、新羅に駐留したことも、それは手段であって、目的ではない。
その意図が見えるのが、西暦427年の平壌への遷都である。平壌は、かっての楽浪郡の中心となっていた地である。この地域の高句麗のよる占領は、西暦313年にさかのぼる。いらい既に100年を経過している。その間、平壌が高句麗南進の一大拠点であったことは想像に難くない。
西暦427年に至って、ここに正式に遷都したということは、100年に渡る平壌経営の完成を意味し、南下が一応の成就したことを表し、そして、さらなる南進策が確立したことをも表している。
そうして、この50年後の西暦475年に至ると、一挙にして漢江流域の占領に成功し、その河岸の百済の都、漢城を陥しいれるのである。しかし一方で、これに前後する頃は、新羅が高句麗から離れさる時であった。新羅は高句麗の武力を背景として倭から次第に遠ざかり、種族的統一を強くしつつ成長して行き、はては高句麗そのものからも独立しようと企てるまでになった。
以下に述べると言った、日本書紀の記事をここで述べる。(春野註・ここで、その文がやっと出ました。教授独特の叙述方法で、内容は優れた書がひどく難解なものとなっている!)
上に、言及したように、書紀の雄略天皇八年紀(464年)に次のような一説がある。
「雄略天皇が即位されてから、この年に至るまで、新羅がそむきいつわって、貢物を持ってこないことが、八年となった。それで、おおいに天皇を恐れて、高句麗と修好した。これによって高句麗の王は精兵一百人を遣わし、新羅を守らしめた。しばらくして、高句麗の軍士の一人が暇を取って国に帰った。その時に新羅人を馬飼として、同行させた。道中、軍士が密かに語って言う『汝の国、新羅が我が国、高句麗の為に破られることは、そう遠くはあるまい』と。(春野註・末松教授は、この任那興亡史で、言及していないが、書紀のこの条に続いて書かれている文書がある。それはこうである『一本に云わく、汝が国、果たして吾が土になること久にあらじ』)その馬飼は、それを聞いて、腹痛を起こしたふりをして、主に遅れ、遂に国に逃げ帰り、軍士の語った事を告げた。ここに新羅王は、高句麗の新羅守備の本心を知って、使いを出して国人に告げて言った『人々、家の内に飼うところの鶏の雄鳥を殺せ』と。
国の人は、その意味を知って、国内の、あらゆる高句麗人を殺した。
ちなみに、「家の内に飼う鶏の雄鳥を殺せ」と云うことが、高句麗兵を殺せという意味に通じたというのは高句麗兵の服装の兜帽に雉の尾羽をはさんであったことが、特徴で、それがちょうど鶏の雄鳥のトサカに見えていたのだろう。それで鶏の雄鳥=高句麗兵と通じたのである。それとともに鶏を意味する新羅語torkが、高句麗の軍隊・軍人を意味する高句麗語tarまたはtakにも通じていたからだと思われる。