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107 任那興亡史

 その事を「三国史記」は、次のように記している。

「實聖王は奈勿王によって高句麗に質として送られたので、それを恨み、高句麗から還ってきて新羅王にになると、奈勿王の子(訥祇とつぎ)を害して、その恨みをはらそうとした。それで高句麗に質として取られていたときの高句麗人の知人を招き、密かに告げて、訥祇とつぎを見たならば殺してくれと頼んだ。高句麗人は訥祇を見て、その君子の風あるに打たれ、遂に事情を告げて『実はあなたの国王から、あなたを殺してくれと頼まれましたが、今、あなたを見ると害するにしのびない』と言って帰って行った。訥祇はこれを聞いて怒り、かえって實聖王を殺し、自ら立って王となった」


 遺事では實聖王を殺したのは高句麗兵とし、史記では訥祇王、自らとする違いはあるが、重要点は勢祇王の即位に高句麗人が関与しているということである。

 この事は、新羅の王位が、高句麗の武力によって左右された事を示すとともに、他の面からいえば、高句麗の駐屯軍が存在する事を証明する史料の一つである。

 他に高句麗の駐屯を証明する史料は新羅にはないが、書記の雄略天皇八年(464年)の条には直接的にそれを伝える記事がある。その記事は改めて下に述べることとして(春野註。ああ!教授は肝心な所で話しをそらしてしまわれる。しかたがないので、ここで春野が日本書紀、岩波文庫版をひきずり出して追記するか!その、条にはこうある。『雄略天皇が位に即かれてから今年に至るまで、新羅の国は、そむき、いつわって貢ぎ入朝しないこと八年となった。そうであるのにひどく天皇のお気持ちを恐れて高句麗と修好している。修好によって、高句麗の王は精兵百人を新羅に送って守らせている・・・』)とにかく好太王の南下後50年に渡って高句麗の新羅駐屯は続けられたらしい。


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