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106 任那興亡史

 その二は「三国史記」にある「392年・(新羅の)伊飡大西知いさんだいにしちの子、實聖じっせいを以て高句麗に質とした。402年、實聖は高句麗より還った。402年、奈勿王の子、未斯欣みしきんをして倭国に質とした。412年、奈勿王の子卜好(未斯欣の兄)を以て高句麗に質とした。418年堤上奈麻の努力により、ト好は高句麗より戻り、また未斯欣は倭国より還った」という話である。


 新羅は倭と高句麗の双方に質を送っていた。それを知ることが上記の記事から読み取れる。この二つの、人質に関する話の時期は、ちょうど好太王が、南進していた頃である。

 好太王碑にも、新羅が高句麗に人質を出している事は、碑文の永楽十年(400年)の条にうすうす見える。高句麗と倭が戦う中、新羅はひそかに高句麗にも繋がろうとしていたから、倭の攻撃は西方のみでなく、東方でも行われた。

 しかし、その後、高句麗の南進が成功し、新羅はより強く高句麗と結びつく。倭はそれがために、より強く百済と結びついて高句麗に対峙した。


 新羅と高句麗が接近が強化したことを示すのは、417年に新羅王として即位した訥祇王の即位の事情である。三国遺事にはその事情が記されている。

「實聖王は前王の太子、訥祇が大変徳望があるので、新羅進駐の高句麗兵に頼んで、訥祇を殺そうとした。しかしながら高句麗兵は訥祇の賢行あるを見て、かえって逆に實聖王を殺し、訥祇を立てて王とした。」


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