105 任那興亡史
好太王は高句麗の歴史に、特筆すべき記録を残して412年に39才を以て薨じ、ついで長寿王が立った。新王は、その名が示すように在位79年、西暦491年に98才を以て没した高句麗第一の長寿の王であったのみならず、業績も父王をついで大いにあげた名主である。この長寿王の永い一代と、次の文咨明王(在位419年~519年)の一代、合わせて二代約百年間が、任那の歴史でも特別な時代である。
この期に任那は、高句麗勢力と倭国勢力とが、新羅を中にして相対立したことで発展する。その現れが
すなわち新羅の質子問題である。
396年に高句麗に攻められて、臣従を誓った百済が、翌年すぐさま、また倭にも太子を送って質としたことは先に述べた通りである。その質を送ったのは倭に対する恭順の意の表明というより、倭からの強制に屈したからである。
ところが同じ意味の質が新羅からも倭に送られている。新羅はまた倭のみならず、高句麗へも同じ意味の質を送っている。これはつまり新羅に対する圧力の強さが高句麗と倭と同等であったことを示している。
この新羅の質に関しては、二つの伝えがある。その一は三国遺事載の記事「391年、奈勿王の第三子、美海を倭に質として出したところ、倭の王は美海を留めて返さなかった。その間419年には王弟寶海を高句麗に使わしたところ高句麗王も又寶海を留めて返さなかった。426年になって歃良郡太守堤上は王命に従って高句麗に入り、寶海をのがれ帰らさせ、又、転じて倭に渡り、美海を逃れ返らせた」と言うものである。