104 任那興亡史
好太王碑の次に続く文は甲辰年(404年)の出来事である。
倭軍はそれでも従わず、帯方の域に反撃にでた、これは396年に高句麗に奪われた58城の奪回の企てと見られる。連船の文字から推しても、進軍は主として海路により行われたかと思われる。続く407年の文があるが、その文からはなお倭と高句麗が戦闘を続けた事が推察されなくもないが、欠文も多いので詳しくは解らない。
碑文の百済・倭に関する記事はそれゆえ404年をもって終わりとする。しかし幸いにも、その事に直接繋がる出来事が、日本書紀ならびに三国史記に見いだされる。それは以下のようである。
405年、百済の阿花王が薨じ、王の弟、訓解が執政を代行したが、訓解の弟の碟禮が訓解を殺し、王となった。この時、倭に質となっていた百済の太子、腆支は倭より戻り、国人が碟禮を殺すのを待って入国して王位についた。(三国史巻25)王が帰国するにあたって倭は去る399年にした東韓の地(錦江の南岸)を百済に還付した。(日本書紀・応神天皇16年載)
以上を要約すると391年から405年の頃に至る間の高句麗好太王軍の南下の形勢は高句麗よる百済攻略と、高句麗による(倭の侵略からの)新羅救援となってあらわれた。この両戦いの主役は主として高句麗と倭国であった。
このような戦いをなしえた事については倭の半島におけるかなりな程度の地盤の存在を前提としなければならない。その地盤は前に考えたように360年代以来から405年にいたる半世紀の間に倭が韓地に蓄積した武力を主とする実力である。碑文はこのことを暗示している。また倭の攻撃方向が半島の西北方面つまり高句麗・百済の国境地域に置かれたことは、倭国からの遠距離を考えると倭の攻撃の積極性を示すとともに進軍が主として海路によった事を思わさせる。
この海路は楽浪郡時代以来、倭の確保した路であり、倭とを百済をつなぐ主要路でもあったことは記憶されるべきである。碑文では高句麗が建てたという事情で、高句麗の優位が誇示されているけれど、全体的には倭軍の絶え間ない反撃を認めざるを得ない表記となっている。
かくして、結局好太王の南征は南韓における倭の勢力を固めるのに役立ったということになる。したがって倭と百済の関係も、前記に樹立された服従関係が、更に強められるということになるのである。