103 任那興亡史
このような状況の中で成立した任那は、地理的にいえば、諸韓国の一つである狗邪韓国=任那加羅に起源し、百済、新羅の統一国内に入らないすべての韓地を含めた地域の総称で、政治的にいえば任那加羅を中心とする支配体系であり、さらに、周辺に間接支配する百済、新羅を付属させて、任那・百済・新羅の三者合一して、高句麗に対立するものであった。
楽浪・帯方の最後の頃から発動した韓地統一の運動は、その第一・第二の中心体である百済・新羅が中途に抑圧されて、第三の中心体の任那加羅=倭国が功を収めたのである。
整理して言えば好太王(広開土王)碑記載の辛卯年(391年)は上記の様な状況が成立した二十年後の年記なのである。
好太王碑の碑文によれば、「百済と新羅はもとは、高句麗の属民であって、それゆえ朝貢を重ねてきた。しかるに倭は辛卯年(391年)に海を渡って来て、百済・□□・新羅を破って臣民としてしまった。それで(永楽)六年、丙申年(396年)、王は水軍を率いて百残国を討った。」とある。
そのあと、進軍の途上、攻め取った城の名を列記すること五十余りにのぼり、最後に百済の都城に攻め寄せ功を収めた次第が書かれる。この戦いによって高句麗は二十六年前の西暦371年の百済の北進によって亡くなった国王の仇を討つことができた。これによって百済の北半分の領地と58の城が失われた事が明らかである。399年百済が前年の誓いを破り倭国と通じたことを責めるために、好太王自らが平壤(今の京城)まで下ってきたところ、新羅の使いが来て救援を請うたので、新羅救援に向かった。先の396年の戦いは百済にとってかなりひどい敗北であったと察せられるにもかかわらず、翌年の397年に早くも倭と修好をかさねたのは、百済にそれだけの余裕があったというよりも、倭の牽制が急速で強力であったからだろう。
高句麗軍が百済進軍から新羅進軍に切り替えたのは、倭の勢力が百済におけるよりるより韓地南西部で強力で倭の主軍は海路、半島の西海岸を北上していたからだ。碑文203字中、105字が欠字となっているため詳しい戦況は解らないが、高句麗軍五万は倭軍の充満する新羅城に至り、城を落としたようである。