102 任那興亡史
その後百年、313年に楽浪郡、帯方郡(両地は元同一の、北韓国部の中国領有地・支配地であった。4世紀南部地を帯方郡としたという。春野註)が高句麗に滅ぼされるまで、倭にとっては比較的発展の機会があったことは想定してよかろう。
しかし高句麗の登場で倭人の活動に転機がやって来た。一つにはこの地を占領した高句麗が、楽浪時代のような文化的交渉の相手ではなく、武力を主とした圧力を南方に伸ばそうとするものであった事であり、その二としては楽浪の滅亡に先立つ頃、すでに顕著に認められた韓諸国の統合活動が、楽浪の滅亡を機としていよいよ推進された事である。
これを具体的に言えば、馬韓の一国であった伯済国(後の百済)は、韓地の北部にある程度の統一を遂げ、その南境は、かの狗邪国に接近した。このような新事態は300年に渡る倭人の半島における活動を、ほとんど全面的に拒否し、倭人が既に半島に持っている勢力を破壊する結果を招来するものに見えた。それ故、倭人は360年代における百済の接近の日を待つまでもなく、それどころか積極的に百済、新羅の統一の進行とともに平行して、既に何らかの対応策を実施したであろう。
考えるに、倭人は狗邪国を以て、韓地に於ける第三の統一の中心となし、全韓地の統合を企図せざるを得なかったであろう。
この、倭人の動きに関しては、もっと古い事ごとに触れなければならない。従来、ほとんど全ての論者が、楽浪郡時代に於ける倭人の活動、対中国関係に於ける位置を弱小に考え、倭韓同列に取り扱おうとする傾向にあった。
しかし私は、第一に、倭人の中国との直接通交の文献が西暦57年にあり、韓人のそれは、遙か遅れて261年にあること、第二にその朝貢で受けた待遇にひどく差があること、第三に楽浪・帯方の支配の影響が韓には直接的であったが、倭人は、支配の外にあったこと、第四に韓地に於ける王の統制力は倭国に於ける倭王のそれに比べれるまでもないほど微弱であったこと、など四つの理由によって倭国の政治統一の力が韓地に先んじること数歩であり、それによって楽浪郡滅亡後の韓地に於ける統一運動にも倭人が優位の役割を演じたと考えている。
このような、韓地に於ける倭人の歴史的動きこそは、立国間もない百済をして倭国に臣従せしめた根本元因なのである。
百済は367年、はじめて使を倭に送り、通交の端を開いた。この積極的な百済の使いの派遣は、倭に大規模な出兵を意図させたものであったが、もとより倭にもその意向があったから369年の出兵に繋がるのである。この出兵は大成功に終わり、百済はいよいよ倭をたよりとするようになった。