101 任那興亡史
「その北岸」は、文字上のみから言えば、韓国の北岸ともとれるし、倭国の北岸ともとれる。しかし実際の地理に当てはめて解けば、そのいずれにもあたらない。全く不可解な文字である。しかし私はこれを「倭国の北岸」とし、このように書かれたのは、狗邪韓国が倭人の所有するところとなっていたからにもとづくものと解釈する。
狗邪韓国は同じ「魏史韓伝」に弁辰十二国の一国として見える「弁辰狗邪国」にほかならず、その狗邪が、加耶、加羅の対訳であることは、多くの人が認める所であり、好太王碑に見える「任那加羅」(碑の裏面にある文字であるが、岩波文庫版三国史記倭人伝に、併せて載せられている好太王の碑文ではこの「任那加羅」は小さな文字の説明文に登場するだけで、なんだかうやむやになっている。それで最初は氏の文章を疑った!春野註)に当てることも異論のないことだろう。ちなみに、この地は今でいうと洛東江の口、釜山・金海地方にあたっている。
前記の事に関連して言及する必要があると思うことがある。同じ韓伝に「弁辰瀆盧国は倭と界を接す」と言う一句のあることである。この韓の最南部にあるという国の存在は従来、議論のあるところであるが私は先考の論を引いて、巨済島(韓国南岸に接する400キロ平方㍍の淡路島ほどの大きな島・春野註)説に同意するものである。島の古名は、裳郡と言い、裳は朝鮮語で斗婁技その発声tuーruーkiは瀆盧の発声に非常に近いという。
要するに三世紀半ば弁辰狗邪・すなわち半島の東南端の任那加羅の地を領有した倭人は、そこを韓地に対する政治的経済的活動の発信地とするとともに楽浪郡、帯方郡交流の足がかりとしたのだ、