100 任那興亡史
このような形勢のもとにおいては、日本勢力を迎え、まず東南方面にあっては加羅諸国に対する新羅の野望を阻止させ、西南方面にあっては日本と百済との提携共同の形をもって領土の先取を示し、日本を背後に抱え保証占領を実現するのが百済にとって労少なく効多いことであることは言うまでもない。百済が腰を低くして日本に通じたゆえんはこのようなところにあると推測される。
そう言うことであるけれど、百済がはるかにもはるかな海を越えた彼方の日本をたよりとして、これを迎えようとしたわけは何なのだろうか。それについては、第一に加羅諸国に於ける日本の既存の勢力の存在、第二に新羅に制圧が効くことも考えられるが、もっと大きな要因としては、当時の百済に及んでいた日本の勢力そのものをあげたい。日本の勢力というものは、すくなくとも一世紀以来続けられた、日本の楽浪・帯方通交そのものが植え付けた力である。
今、その交流を検討する事は、百済が日本勢力を迎えた理由を推理する方法であり、また日本がたやすく百済の誘導に応じた事情を尋ねる道でもある。(したがって、この後は百済、日本の交流を検討する)
西暦57年(後漢・光武帝・中元二年) 正月、倭奴国王の使人、漢廷に奉貢朝賀し、印綬を賜った。(後漢書)
107年(後漢・安帝・永初元年)冬十月、倭面土国王師升ら漢廷に詣り、生口(奴隷又は何らかの技術を持った働き手)160人を献じた。(後漢書)
239年(魏・明帝・景初三年)六月、倭の女王、太夫難升米を帯方郡に遣わして魏廷に朝貢せん事を求めた。郡の太守劉夏吏をして京(魏の都)に送り詣らしめた。(魏史)
240年(魏・齊王芳・正始元年)帯方太守弓遒は梯儁を倭国に遣わして詔書印授を女王に伝え送らしめた。(魏史)
243年(正治四年)十二月、倭王、吏を遣わして魏廷に奉献した。(魏史)
247年(正治八年)帯方郡塞曹椽史張政を倭国に遣わして詔書黄幢を送達せしめた。これより先、倭国の使人載斯鳥越ら、帯方郡に詣って狗奴国の男王卑彌弓呼と女王卑彌呼と相攻撃することを説いたので、この詔書(告諭)となった。(魏史)
266年(晋・武帝・泰治二年)倭の女王遣使朝献した。(書紀、晋書より引用)
以上の数條が列挙されるにすぎない。けれどもこれらの記録は、倭人の楽浪・帯方通交が、すでに一世紀の中頃には、中国本土との通行に延長・発展していて、その前提として定期的な楽浪・帯方への通交があった事を示している。このような通交は、半島とりつきの地に中継的足場を獲得していたと思わせる。
三世紀半ばの有様を魏史にみると「帯方郡より倭に至るには、海岸よりて水行して韓国諸所を経て、あるいは南に、あるいは東に水行しその北岸の狗邪韓国に至る事七千余里、始めて一海を渡る千余里対馬国に至る・・・」とある。