10 倭国と金印
倭委奴国王などと間違えた事を書いてしまった。 漢委奴国王 と言うのが印に刻まれた文である。そして、その意を解読するのに通説は「漢の倭の奴の国王」だと言っている。この印の意味に関しては、ここでは深く追究しない。この事に関連した事がある。魏志倭人伝(中国、古代、魏国の歴史書)によれば景初2年(238年)6月、倭の女王の使者、太夫難升米が、魏のある郡にやって来て天子に会うことを求めた。その郡の太守(長官)劉夏は配下の役人を使者のもとに遣わして交渉のすえ、天子のいる都まで送らせた。6ヶ月後の、その年12月、魏の明帝は卑弥呼にあて書を書いた。内容は以下のようである。 帯方郡(韓国の魏の支配地)の太守劉夏があなたの使いを送ってきました。あなたが貢いだ男奴隷4人女奴隷6人木綿の布2匹2丈(1匹は4丈である。1丈は2.4メートル。したがって2×4+2=10であるから全10丈で24メートルだ。布幅は不明であるが原始的な織機だろうから30センチから50センチと考えられるが、卑弥呼の面目もあるから90センチもある
高級品であることも考えられる。布の幅で文化水準が見られてしまうのだ)を伴っていました。あなたの居る所は遙かに遠いながらも、使いを遣わして貢ぎを行いました。これはあなたの忠孝であり、私は大変
あなたをいとおしく思います。今、あなたを親魏倭王として金印紫授(金印に紫のひもをつけたもの、臣下としてのしるし)を許す。あなたは人々を安らかとし、いたわるとともに天子に礼をつくしなさい。あなたの使いは遠路遙々、まことにご苦労様でした。位を与え、銀印を授け、私への面会を許し、その労を
褒めて、倍加する供物を持たせて帰還させます。(2年後、魏国は使者をよこして書と金印と供物をもたらした。魏国は女王の存在を確かめたかったのに違いない。なお魏王が邪馬台国に授けた金印は発見されていない)