第4話 身体を調整
身体がいつもより重いのを自覚しながら、二日過ごした。
壁に叩きつけられた時の痛みは、ほとんど消えていた。腕も、脚も、問題なく動く。
けれど、視界にコボルトの爪が迫る瞬間が、今でも脳裏に焼き付いている。
目を瞑り、迫る瞬間を思い浮かべると、僅かだが手足が強張る。
あれは、運が良かっただけだ。
何かの歯車が狂えば、間違いなく死んでいた。まずは、その事実を飲み込む。
震えを逃がすように、長く、息を吐いた。
一歩ずつ、できることをしよう。
今日は、土曜日。
朝は静かで、家の中に生活音は少ない。
テレビでは、相変わらずゲートのニュースが流れている。新しい情報は、特にない。
父はまだ寝ているらしく、リビングに見かけない。
起きないように、ひたひたと、家の中を歩き回り、動きやすい服、ナイフなど装備を整える。
深呼吸して、玄関を出た。
時間はある、急ぐ必要はない。
今日は身体を調整する日だ。
*******
山道を抜け、見慣れた場所に立つ。
歪んだ空間は、相変わらずそこにあった。
何度見ても、不思議な光景だ。
入る前に身体の感覚を整える。
身体が重い時も、思考だけは巡らせてきた。
前みたいに、感覚任せにはしない。
今日は、一つずつ時間を使い、動きを確かめる。
まずは、動く。
『歩く』
『止まる』
『振り向く』
『走る』
『跳ぶ』
一つ一つ、意識して動作を刻む。
距離をどのくらいで走れるか測る。
壁に向かって走り、近づきすぎないようにする。
止まる時は、半拍早く意識する。
まだ予想より前に出る。
修正。
また修正。
たまにバランスが崩れ、転けそうになるも挫けない。
脳が命じる『一歩』と、
肉体が踏み出す『一歩』。
その僅かなズレを、時間をかけて削り落としていく。
しばらく経ち、『パチッ』と意識と身体が噛み合ったのが、なんとなく分かった。
ここからが本番。
一息吐き、膝を叩きながら気合いを入れる。
ゲートに向かって一歩、踏み出す。
*******
洞穴に到着した。まずは、鈍っている五感を動かし、感覚を呼び覚まさせる。
最初に見つけたのは、ゴブリンが二体。
距離は、少し離れている。
互いに背を向けているが、近い。
同時に相手するのはダメ。
以前の反省を、活かす。
私は、右側の個体に狙いを定めた。
呼吸を止める。気配を殺し、その個体との距離をじわじわと詰める。
一歩。
もう一歩。
隙ができた瞬間。
今……!
肩の力を抜き、ナイフを確実に滑らせる。
ゴブリンが音を立てることもできず、その場に崩れた。
すぐさま、もう片方の個体に視線を滑らせる。
もう一体はまだこちらに気づいていない。
その前に……!
即座に地面を踏み込み、一気に距離を詰め、ナイフを突き立てる。
ゴブリンが粒子となって消えた。
……。
フゥと一息吐く。
以前より、確実に動けている。
少し休憩を入れ、洞穴をさらに進む。
今度は、三体現れる。
そのうち一体は、少し離れた位置にいる。
手に持っているのは、簡素な弓。
……アーチャー系。
近づく前に撃たれると厄介。
(……先に優先順位を決めよう)
遠距離が最初で、次に近距離。
私は、弓を持つ個体の死角へと回り込む。
遮蔽物を繋ぎ、『見られている』という感覚を断ち切るように視線を切る。
ここで焦ると前と同じ。
まだ動かないと我慢し、隙ができるのを待つ。
その間に適切な距離と角度を考える。
隙ができた瞬間。
今……!
間合いを風の通るような速さで詰め、ナイフを突き立てる。
肉を断ち切る感触と共に、個体が沈む。
視線を移し、残り二体を見た。
一体の怨みがましい視線を感じる。
そして耳がつんざけるほどの唸り声。
うるさい。
余りの騒音に顔をしかめるも、一気に距離を詰めた。
二体とも、短時間で倒した。
……楽になった。
正確には、心と身体が噛み合ってる。
無双、というほどじゃない。
でも、危なげもない。
身体が言うことを聞いてくれる。
こういうことか。
強くなるって、数値だけの話じゃない。
前なら、倒せるかどうか、だけで判断していた。
今は違う。
倒すか、避けるか、引くか選べる。
たぶん私は、強くなりたいんじゃない。
『選べるようになりたい』だけだ。
*******
何体目かを倒した時だった。
一瞬、身体から力が漲ってくる。
【レベルが上昇しました:2 → 3】
また上がった。
もう一度、時間をかけて、身体の感覚を整える。
身体と意識が噛み合ったと判断した後、また倒す。
何体か倒すたびに、微妙なズレをその場で修正する。
まだ、いける。
以前と同じミスはしない。
無理もしていない。
危険も把握できている。
さらに進む。
複数の敵を見て、順番を決め、確実に倒す。
それを、何度も繰り返した。
何体も倒していると、また身体が淡い光に包まれる。
身体が、また一段と軽くなる。
さらに、遠くの音も聞こえるようになった。
時間をかけ、同じことを繰り返し、ゴブリンを倒し続けた。
*******
一匹のゴブリンを倒した時だった。
不意に、遠くから獣が鼻を嗅ぐ音が耳に届く。
鳥肌が立ち、一気に全神経が張り巡らされるのを感じた。
息を止め、気配を全力で殺す。
今は心臓の鼓動すら邪魔だ。
風の流れを必死に読み、臭いが届かない位置に移動する。 足を止めてその場でじっと動かない。 歩いてくる存在を待つ。
前から犬のような影がゆっくりと姿を見せた。
(コボルト……!)
前に、嗅覚で見破られた相手。
額から雫が床に落ちるのを感じた。
一瞬、手足が震えそうになる。
でもナイフを握り締め、気持ちを切り替える。
——焦りは禁物。
コボルトが鼻を鳴らす。
……気づいていない。
前なら、ここで踏み込んでいた。
——でも今日は、待つ。
隙ができた瞬間。
半拍遅らせて、横に出る。
地面を全力で踏み込んだ時には、もう視界がフワリと浮いていた。 羽が生えたかと思うほどの跳躍。
空中でナイフを握りしめ、身構えようとするコボルトの頭上を奪う。
コボルトがこちらを仰ぎ見るより早く——重力に任せ、持てる全ての力でナイフ、を振り下ろした。
確かな感触。 抗う間もなく、コボルトは短く鳴いて崩れ落ちた。
地面に勢いよく着地し、衝撃を逃がすように片手を床につく。 その姿勢のまま、動けなかった。
自分の背後で、コボルトが粒子になって崩れていくかすかな音だけが聞こえる。
やがて辺りを、深い静寂が支配した。
「……ふぅ」
そこでようやく、止めていた息を吐き出した。
(怖くなかった……わけじゃない)
手が、まだ震えている。
でも、それを理由に動けなくなるほどじゃなかった。
実感した瞬間、身体を光が包み、更なる力が沸く。
⸻
【レベルが上昇しました:4 → 5】
スキル:【気配遮断 Lv.2】へ進化 スキルポイント:+1
【ステータス】
名前:相沢 天音 レベル:5
ジョブ:【暗殺者】 種族:人間
体力:16 / 魔力:18 / 攻撃:23 / 防御:9 /
敏捷:28 / 器用:23 / 感知:20 / 運:14
スキル:【気配遮断 Lv.2】
ユニークスキル:なし
称号:なし
所持スキルポイント:1
経験値:32 / 500(次のレベルまで 468)
⸻
『一区切りついた』と判断する。
胸の奥に、静かな実感が落ちる。
そして、その下の表示。
『スキルポイント:1』
説明を見るに、一覧から何でも一つだけスキルを取れるようだ。
だが、今は、使わない。
まだ、自分が何を欲しいのか、はっきりしていない。
気づけば、呼吸は落ち着いていた。
今日はここまでにしよう。
奥に進めば、もっと強い敵がいる。
それは、分かる。
でも今日は、違う。 同じ失敗はしない。
今日は……身体を調整する日だ。
少しだけ名残惜しそうな目で視線を奥に移す。
だが、引き返すことを選んだ。
*******
洞穴を出る。
夕方の光が、顔を覗かせる。
木々が、風に揺れている。
……風が心地いい。
それが、素直な感想だった。
動きは、さらに速くなった。力も強くなった。
でも、それ以上に『身体と意志が噛み合った』。
それが、今日の成果だ。
帰り道の足取りは軽い。
次は、もっと深いところに行く。
その時は、今日よりもっと準備する。
レベルが上がっただけじゃ、足りない。
*******
家に戻ると、父はまだ外出中だった。
静かな部屋で、ベッドに腰を下ろす。
視界に、ステータスを呼び出す。
ちゃんと、強くなっている。
数字は、確かに増えている。
——だからこそ、慎重に決めよう。
スキルポイントは、まだ使わない。
次に進むために、知る必要がある。
この先に何があるのかを。
布団に横になり、目を閉じる。
身体は疲れている。
でも、嫌な疲れじゃない。
次は、もっと先へ。
そう思いながら、私は静かに眠りに落ちた。




