第1話 世界の裏側ができた日
朝のニュースは、いつもと同じ音量で流れている。
天気予報。芸能人の不祥事。渋滞情報。
私は食卓に一人で座り、冷めかけたトーストをかじりながら、ぼんやりと画面を眺めていた。
父——相沢修一は、今日ももう家を出ている。
夜勤明けでそのまま仮眠を取る日もあれば、顔を合わせないまま数日が過ぎることも珍しくなかった。
静かだ。
この家は、いつも静かだ。
嫌だったわけじゃない。
ただ、慣れてしまったという方が近い。
母がいなくなったのは、小学生の頃だった。
理由は、もう理解している。浮気。離婚。親権。いわゆる、大人の事情というやつだ。
それ以来、父は仕事に追われるようになり、家にいる時間は減った。必然的に、私が一人で過ごす時間は増えた。
最初は寂しかった。
何度も、父が帰ってくる音を待った。
けれど——人は慣れる。
料理も、洗濯も、生活の段取りも。一人でできることは、いつの間にか増えていった。
その代わり、誰かに頼るという感覚が、少しずつ薄れていった。
テレビの画面が切り替わる。
そこで、空気が変わった。
『速報です』
アナウンサーの声が、わずかに硬くなる。
『本日未明、関東近郊の山間部にて、原因不明の巨大な裂け目が確認されました』
画面に映し出されたのは、森の中。空中にぽっかりと口を開けた、異様な空間だった。
深く、暗く、底が見えない。
……裂け目?
私は無意識のうちに、身を乗り出していた。
『裂け目は現在も不安定な状態が続いており、内部の構造や発生原因については分かっていません』
『専門家による調査が進められていますが、安全性は確認されておらず、政府は周辺地域への立ち入りを控えるよう呼びかけています』
原因不明で、安全性も未確認。
つまり、何も分かっていないということだ。
「また、変なの出てきたな」
独り言のように呟く。
だが、胸の奥がざわついていた。怖さではない。
なんだろう……?
嫌な予感とも違う。もっと別の感覚。
期待に近い、何か。
テレビの音だけが部屋に残る。
トーストの皿に視線を落とすと、バターはすっかり溶けていた。さっきまで普通だった朝が、どこか別物に感じられる。
それでも、時計の針は進み、時間割は変わらない。学校へ行き、授業を受ける。やることは、昨日と同じだ。
私は立ち上がり、皿を流しに置いた。
日常は、何事もなかったかのように続いていく。
登校途中、スマホを見れば、SNSでもその話題が流れていた。
真偽不明の動画。
「ゲートじゃね?」という軽い言葉。
海外でも似た現象が起きている、という噂。
どれも確証はない。
だが、誰もが少し浮ついている。
教室は、いつも通りだった。
チャイムが鳴り、担任が入ってきて、授業が始まる。ノートを取り、板書を写す。淡々とした時間。
けれど休み時間になると、話題は一気にそれ一色になった。
「なあ相沢、朝のニュース見たか?」
佐藤悠斗が、いつもの調子で声をかけてくる。
「見た。原因不明の巨大な裂け目、でしょ」
「やっぱ見たか。あれさ、海外でも似たの出てるらしいぞ」
その言葉に反応するように、周囲の席からも声が上がった。
「ゲートって呼ばれてるらしいぜ」
別の生徒が、笑いながら口を挟む。
「ゲームかよ。現実でそんなのあるわけないだろ」
笑い声。軽いノリ。
「でもさ〜、もしゲートだったら、入ったやつ勝ちじゃね?」
誰かが、冗談めかして言った。
「レアアイテムとか出るかもよ」
「動画撮ったらバズるだろ」
また笑い声が上がる。
「……それより聞いた?」
声を潜めて、別のクラスの女子が言った。
「昨日、その山の近くで警察いたって聞いたよ。 ……登山客がいなくなったんだって」
一瞬、空気が止まる。
「え、マジ? 事件?」
「わかんない。でも、昨日からずっと探してるらしいよ」
確認するように誰かが問う。
「テレビじゃやってないよな」
「うん。だから、あんまり言うなって」
背後で冗談っぽく笑う声がして、空気が戻った。
「まあ、どうせ大げさなんだろ」
その一言で、話題は別の方向へ流れていく。
私は机に頬杖をつき、その様子を眺めていた。
誰かが入って、戻ってこなかったら。
(その時も、明日は普通に授業をするんだろうか……?)
そんな、冷めた疑問が頭をよぎる。
周りの喧騒が、急に遠くの出来事みたいに感じられた。ノートの端に引かれた線を、指でなぞる。
でも、もし本当にゲートがあるのなら。
漫画や小説で何度も読んできた。
日常のすぐ隣にある、別の世界。
見てみたい。
その気持ちを、私は否定できなかった。
放課後。
寄り道もせず、まっすぐ帰宅する。
家に誰もいないことは分かっている。
鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。
制服を脱ぎ、部屋に入る。
本棚には、異世界ものや非日常を描いた漫画や小説が並んでいる。手に取る本は、自然と決まっていた。
普通の生活に、大きな不満があるわけじゃない。学校に行き、友達と話し、家に帰る。
それなりに、平穏だ。
それでも。
このまま、何も起きないままなのかな?
そう思うと、胸に小さな痛みが走る。
その夜、再びニュースを見る。
『現在、同様の裂け目が国内外で複数確認されています』
アナウンサーの背後に、世界地図が映し出される。赤いマーカーが、いくつも点滅していた。
「多くない?」
思わず口に出る。
『確認されている裂け目は、いずれも人の立ち入りが少ない地域に集中しており、発生の法則性については現在調査中です』
『各国政府は情報の精査と警戒態勢の強化を進めていますが、現時点で統一した見解は示されていません』
一つや二つなら、自然現象で片付けられたかもしれない。だが、これはそういう数じゃなかった。
『現在も調査は続いていますが、裂け目の発生原因や内部の安全性については、依然として不明な点が多く残っています』
つまり、答えはまだ出ていない。
私は、画面を見つめたまま動かなかった。
海外でも。国内でも。
『裂け目は複数、確認されている』
見つかっているのが、そこなだけで。
人が入らない場所。誰も気に留めない場所。
まだ見つかっていない裂け目があっても、不思議じゃない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸のざわつきが、はっきりと形を持った。
もしかしたら、幻想的な光景があるかもしれない。
……見てみたい。
すぐに行動に移すつもりはない。
ただ、その考えが頭の片隅に残り、消えなかった。
もし近くにあったら。
もし誰にも気づかれていなかったら。
そんな仮定が、次々と浮かぶ。
布団に入っても、目は冴えたままだった。
スマホを手に取り、地図アプリを開いては閉じる。
結局、その夜は何も決めないまま、なかなか眠れなかった。
*******
次の日。学校が終わると、一度帰宅し、動きやすい服に着替えた。
スマホの充電を確認する。満タンだ。
キッチンからペットボトルを一本だけ取る。
大げさな準備はしない。
一瞬、父の工具箱に目がいったが、触れなかった。
地図アプリを開く。
昔、父に連れて行ってもらったことのある——今はほとんど使われていない山——を探す。
ニュースになった場所とは少し離れている。
だから、まだ誰も気づいていない裂け目があるかもしれない。
今日は……確認するだけ。
裂け目があったとしても、中に入るかどうかは別だ。
ただ、本当にあるのか確かめたい。
夕方前、私は山道を歩いていた。
思っていたより、静かだ。人の気配はない。
代わりに、風に揺れる木の音と、遠くの鳥の鳴き声だけが聞こえる。
舗装された道から外れるにつれ、空気が変わる。少し、冷たい。
スマホの電波表示を見ると、一本減っていた。
山の奥に入ってきている。
引き返そうと思えば、いつでも戻れる距離だ。
そう考えながらも、足は止まらなかった。
しばらく歩いた先で、それが見つかる。
空間に、不自然に口を開けた大きな裂け目。
(もしかしてとは思ったけど……本当にあった)
心臓が早鐘を打つ。
ニュースに出ていたものと同じだ。
だが、フェンスも警察もない。
まだ、見つかっていないのだろう。
私は、裂け目の縁に立つ。
覗き込むと、光が吸い込まれていく。
本当は、入るつもりはなかった。
ここで引き返すこともできた。
だが——
一歩、足を踏み出す。
……。
世界が、静かに切り替わった気がした。
外の匂いが、ふっと消える。
外の空気とは、明らかに異質だ。
裂け目に入ったはずなのに、気づけば洞穴のような場所の中におり、ゲームのダンジョンを思わせる。
足元の感触は、妙に硬い。自然にできた地面というより、まるで、誰かが作ったみたいだ。
振り返ると、入り口の光が進んだ距離を意識させた。音が消え、空気が肺に重くのしかかる。 心臓は、普段よりも鼓動を感じさせる。
それでも、不思議と頭は冷えていた。洞穴の奥は、想像以上に静かだ。水滴の音すら、聞こえない。
静かすぎる……。
一歩進むたび、足音だけが響く。
その瞬間、背筋に、ぞわりとした感覚が走った。何かが、いる。
影が跳ねたと思った瞬間、洞穴に響く足音と共に、間合いが一気に縮まる。
醜悪な顔をした緑色の影が視界を埋める。
——ゴブリン。
次の瞬間、棍棒が視界を覆う。
——っ!
反射的に身を捻る。
衝撃は完全には殺しきれなかった。
すぐさま逃げようと足を引いた。
だが、足元は暗く、よく見えない。
額を伝った汗が、足元に落ちた。
辺りを見回す。
地面に転がる鋭利な石を素早く掴み、考えるより先にぶん投げた。 緑色の顔に石が直撃する。
ゴブリンの足元が流れ、身体が傾いていく。
無我夢中で、倒れ込んだ影に飛びかかった。 腕を振り上げ、拳を振い続け、鈍い感触が辺りに響き渡る。
やがて、影は力尽きたように倒れた。
息が荒い。喉が、異様に乾いている。
手が、震えていた。
足に力を入れようとして、ぐらりとよろける。
壁に手をついて、ようやく立っていられた。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
今になって、呼吸が乱れた。
『死んでたかもしれない』
そう考えた瞬間、身体の奥が冷えた。
それでも——
逃げ出したい、とは思わなかった。
倒したはずの相手を見ても、現実感が薄い。血の匂いや石の感触がまだある。
どれも確かにあるのに、夢の中の出来事のようだった。
その時、視界の端が、淡く光る。
……え?
次の瞬間、文字が浮かび上がった。
⸻
【ステータス】
名前:相沢 天音 レベル:1
ジョブ:未取得 種族:人間
体力:8 / 魔力:10 / 攻撃:8 / 防御:6 /
敏捷:13 / 器用:11 / 感知:12 / 運:8
スキル:なし
ユニークスキル:なし
称号:なし
所持スキルポイント:0
経験値:12 / 100 (次のレベルまで 88)
⸻
【現在の素質を確認しました】
【ジョブを選択してください】
淡い光が、視界に浮かんでいる。
なに……これ?
触れられない。消えない。
頭の中に、直接表示されているような感覚。
日常の底で。
世界は——確かに、別の顔を見せ始めていた。
後書き
第1話を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、現代を舞台にした「ゲート×ソロ成長」の物語です。
日常の中に少しずつ異変が広がり、やがて天音の運命も大きく動き出していきます。
「天音が強くなっていく過程」と「世界の謎が明らかになる瞬間」をお楽しみください!
物語が動き始めるのは、第6話あたりから。
ここから世界が少しずつ変わり始めます。ぜひ第6話あたりまで読んでいただけたら嬉しいです。
実際、6話・7話まで進んでくれた方の多くが、そのまま最新話まで一気に読み進めています。
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