プロローグ ——あの日、私が誓ったこと
空は不気味なほど深く、昏い。
月だけが中央で嘲笑うように輝いていた。
鼻を突くのは、焦げたゴムの臭いと、鉄錆に似た血の香り。
遠くで鳴り響くサイレンの音さえ、ここでは無意味な雑音に過ぎない。
瓦礫の山を、一陣の風となって駆け抜ける。
民家の屋根を跳び、炎上する車を一瞬だけ視界の端に捉える。
……かつての私には、絶対に見ることのできなかった景色。
(……間に合え。お願い、間に合って!)
祈りは、声にならない。
今の私に許されているのは、ただ駆けることのみ。
路地の奥、逃げ惑う人々を追い詰めていた巨大な怪物が、こちらを振り向く。丸太のような腕が、凶器となって空を裂いた。
普通なら、ここで死ぬ。
今までの私なら、そこで終わっていた。
けれど——私は、足元の『影』に沈み込んだ。
「…………ッ!?」
困惑する怪物の背後。
闇から這い出た勢いのまま、ナイフを横一文字に振るう。抵抗らしい抵抗もなく、刃は滑るように肉を断った。
怪物が粒子となって霧散していくのを、私は振り返りもしない。
全力で地面を蹴り、ビルの壁へと跳ね上がる。
あまりに急激な加速に、ポーチのジッパーが僅かに開いた。
何かが滑り落ち、背後で小さな音が響いた気がしたが
——そんな些細なことに構っている余裕は、どこにもなかった。
辿り着いた、崩落したビル。
視界の隅で、瓦礫に埋まった見覚えのある鞄を見つけた時、心臓が凍りつく。
手が震える。
視界が歪む。
それでも、私は瓦礫を退かし続けた。
剥き出しになった爪が剥がれ、手のひらが赤く染まっても、痛みなんて感じない。
私はこの日誓った。
この力は大切な人を守るために使おうと。
——これは、私が静かに刃を研ぎ続けた、その物語。




