7 母の正義
どうして父と母の間にその後、第二子ができたのか…。私にとって永遠の謎なのだが、母は妊娠し、無事に女の子が産まれた。
しかし、妹は世間で「不必要な公女」と蔑まれた。
後継者作りのためだけに嫁いできた母が第二子それも女子を産んだのが気に入らないらしい…。
私は妹が可愛くて仕方なかった。
妹の部屋へ忍びこみ、健やかで規則正しい寝息を立てる妹を日に何度も覗いた。ふっくらとした妹の頬を突つくが日課だった。
何度かそれで目を覚ました妹が泣き声を轟かせ乳母に度々叱られたが、気に留めることさえなかった。
私の幸せなひと時だった。
母は普段どおり私へ接していたが、今までと同じではなかった。子供ながらに一線を引かれたのだと感じていた。
とても寂しかったが、幼いながら、あの夜の私の発言が母の態度を変えさせたのだと自覚していた。
その頃から母は父との離婚を考えていたのではないだろうか…。
私は母から無条件に愛される妹を羨ましく思っていた。
私は…。母から見捨てられたのだ…。
だが、その考えはすぐに立ち消えた。
ヒューゴは厳しい後継者教育が始まり、家庭教師の一人から鞭打ちの折檻を受けていたときだった。
「全く!物覚えが悪い!きっと、母親に似たのでしょうな…」
ヒューゴのふくらはぎがみみず腫れになるほど、家庭教師は容赦なく鞭を打つ。
「うっ!」
「ああ、嘆かわしい!貴方がしっかり理解しないから悪いのですよ!地頭もお父様に似ていればこのような苦労せずに済んだでしょうに…」
「何をなさっているの!今すぐヒューゴから離れなさい!今すぐよ!今すぐ!離れて!」
あの夜の一件からヒューゴと距離を置いていたメラニーが、ヒューゴの状況を乳母より聞きつけ息子の自室へ怒鳴りこんできた。
「何を勝手なことを…。これは教育の一環です!」
「これが教育の一環ですって!子供に鞭打つことが正しいと仰る教師は必要ありませんわ!貴方には辞めていただきます!」
「これだからっ!田舎者は!これは王都で当たり前のやり方なのですよ。罰を受ければ、次は失敗しないように努力するでしょう…。貴女は黙っていれば宜しい…」
充分すぎるほどのポラードを髪へなでつけ頭が脂光りしている家庭教師の男は、授業の邪魔したメラニーに腹を立て罵った。
「自分の子供のことで黙っていられる母親がどこにおりましょうか!少なくとも私はそのような母ではありません!今すぐおどきなさい!」
ヒューゴは久しぶりに母に抱きしめられた。仄かに甘い香りと柔らかな温もりにヒューゴは安堵する。緊張していた糸が解れて涙が溢れた。
メラニーは庇うように肩を震わせるヒューゴを両手で覆った。
「何と!甚だしい!公爵家の邪魔者のくせに!黙らっしゃい!」
興奮した家庭教師は鞭を振り翳した。メラニーの顔を目掛けてその腕を下ろそうとした瞬間だった。
「何をしている…」
シリルが青褪めた顔色で家庭教師の手を掴んでいる。
シリルの首には無数の青筋がくっきりと浮かんでいた。シリルはこの現状に怒りを抑えられなかった。常に冷静な判断を強いられる騎士団長のシリルには珍しいことだった。
「あっ…。こ…。公爵様…」
稀なことで仕事が早く片付いたシリルは早々と帰宅した。
シリルは仕事を終えると先触れを出す。普段であれば、シリルを出迎えてくれる妻が玄関ホールへいない。何故か胸騒ぎを覚えたシリルはスミスにメラニーの居場所を尋ねた。
少しでも帰るのが遅ければ…。シリルはその考えにゾッとした。
「公爵夫人が…。私の教育方針に口を挟むものですから…」
「ほう…」
「ですから…。私もつい…」
「妻の顔へ鞭を打とうとしたのだな…」
「あ…。いえ、そのような…。ただ、余りにも酷い物言いでしたので…」
「男子たるもの、どんな状況であれ…。女性へ暴力を振るうものではない…。ましてや、貴方は教育者であろう?そのようなものが怒りに任せて、私の妻を傷物にしようとするとは…」
「もっ!申し訳ございません!以後!以後!気をつけますので!」
「ああ…。そうか…。だが、残念ながら以後はない…。貴様は二度とこの屋敷に来るな!顔も見たくない!」
「そんなっ!ご無体なっ!」
「はっ?首が胴体と繋がっているだけでも有り難いと思えっ!万が一でも、公爵夫人を傷つけたならば、私はお前を切り刻んでいただろう!」
翌日からその家庭教師は公爵邸へ訪れることはなかった。
シリルの行動のおかげで、今まで、指導と称してヒューゴへ体罰を与えていた幾人かの家庭教師たちも鳴りを潜めた。
シリルがメラニーを助けたのは、あの家庭教師が行き過ぎただけで、メラニーへの愛情ではなく体面を気にしただけだと、周囲は都合の良い解釈した。
シリルが愛しているのはオレリアだけなのだから…。ちまたでは皆が囁いている。
だから、シリルがメラニーを愛することはないのだ…。
女性の顔へ鞭を打とうなどあってはならないことだ。メラニーでなくとも、例えば、その矛先が庭師の娘であろうともシリルは庇ったであろう。
シリルは武人で騎士道精神が高い人物である。
実際、そのようなことが目の前で起これば身分階級の区別など関係なくシリルは身を挺す。
「あの女は余計なことを…。いいですか?貴方の母親は間違っています…。小公爵の教育はプロである私たちへ任せておけば良いのです…。さすが、育ちが出ると言いますか…。私たちへ口出しするなど、親として悪い見本なのですよ…。貴方はグラジオラス公爵の後継者として心得てください。あの方のようになさってはいけません。元々、彼女は公爵夫人の器でもないのですから…」
メラニーは公爵夫人に相応しくない。
彼らは当たり前のように独自の正論をヒューゴへ刷り込もうとした。
あの時のメラニーは…。
誰が何と囁こうとも、ヒューゴにとっては正義であった。
周囲の声がヒューゴへは響くことはなかったが、メラニーへの侮蔑を聞きたくないヒューゴは黙々と後継者教育に取り組んだ。
その態度にヒューゴが皆と同じ思考でメラニーを軽んじているのだと教師たちは信じたようだ。
本当に愚かな人間たちだ…。
そして…。
ルシアン国王陛下がこの世を去った。
元々、身体が病弱だったのだが、その年の流行風邪で肺を患い呆気なく天へ召されたのだ。
ヒューゴが寄宿学校へ旅立つ頃、シリルとメラニーの離婚が成立した。
私はもうすぐ寄宿学校を卒業する。
正式に新国王からグラジオラス公爵家の後継者と認められたら、次期家長として使用人たちを面談しようと思っている。
母へ含みがあるもの…。
妹を「不必要な公女」と罵るもの…。
全て排除するつもりだ。
いつまで、この家は王太后オレリアの影を追い続けるつもりだろうか…。オレリア様が美しいことは認めよう。自身も幼い頃、魅了された経緯もある。
あの方が、もし父と婚姻したならばと空想するのも罪ではない…。
だが…。だからといって、母を蔑ろにするのは間違っている。母は父に選ばれて公爵夫人となったのだ。公爵家に仕える使用人ならば、公爵夫人に尽くすのが道理だ。
生まれた子供を後継者ではないから必要ないとは…。公爵家の使用人である前に人として間違っている。
「ふっ…。果たして、古参のものは何人残れるだろうか…」
グラジオス公爵の後継者教育を施された私を、当たり前のように母を目の敵に思っていると勘違いしている輩がどれほどいるのだろう…。
母から嫌われていたとしても、私が母を嫌うことはないのに…。
あぁ…。母のいなくなった屋敷は薄寒い。




