4 宰相補佐の辞職願
幼い頃、私は母に連れられブプレウム伯爵領へ何度か遊びに行ったことがある。訪れる度、伯母は柔らかな微笑みで出迎えてくれた。
芝生の上へブランケットを敷き、従兄弟と共に寝転がる。いつもか細く頼りなさげな伯母だったが、絵本を広げたときは登場人物になりきり朗々とした声で読み聞かせをしてくれた。
伯父のことは子供心に少し怖い人だと警戒していたが、伯母には絶大な信頼を抱いて甘えていた記憶がある。伯母は心穏やかで優しい人だった。
伯父はそんな伯母をいたく愛していた。
一時は職を辞そうと考えていたぐらいに…。
「私は妹がグラジオラス公爵閣下と結婚する前からずっとここで働いてましたよね?」
宮廷の一角にある宰相の執務室で書類へ目を通しながら、ランスの上司であるアルセア王国宰相は答えた。
「あぁ…。うん、そうだね…」
ランスの口調から怒りの感情を読み、ガザニア公爵現当主のフレデリクは書類へ視線を落としたまま、顔をあげようとしない。
「何が!コネだ!私は妹がグラジオラス公爵家へ嫁がなくても、もうすでに宰相補佐の激務に耐えていたのにっ!あぁ~!真面目に仕事をこなしても嫌味ばかり言ってくる奴らを片っ端から平手をくらわせたい!」
ランスは拳をワナワナと震わせて訴えた。
腕に全く自信のないランスが本気で有言実行すれば簡単に返り討ちにあうだろう。
「ダメだよ、暴力は…。あっ、ここは差し戻しかな?」
フレデリクは泰然としながら、書類の内容をランスへ指摘する。
「数字はあってますよ…。閣下が予想していた数字よりも低かっただけです…。で、想像ぐらいは許してください!そうでなくても、黙ってやり過ごしていたら、私だけならまだしも!ベアトリスを使ってまでメラニーを追いこんでくるんですよ!あの顔ばかり美しい高慢ちきな王妃のせいで!」
「あっそうなの?追加でその基準となる資料を見せてくれない?うん、それで申し訳ない…。私の娘のせいで…」
王妃オレリアはフレデリクの娘である。
全く悪びれた様子を見せることなくフレデリクが謝った。ランスが予想していた通りの態度だった。所詮、ランスは公爵に及ばない伯爵の令息だ。
ランスはフレデリクが確認している文書を捲って説明した。
「閣下、最後までご覧ください。その資料はその書類の末尾に…。そう、これです…。でっ、はい!これっ!」
ランスはフレデリクの目の前へ封書を突きつける。これにはフレデリクも少しだけ怯んだ。書簡には『辞職願』と記してある。
「あっ、本当だ!ごめん、ごめん…。最後まで見ないとね…。でっ?何?これ?」
部下の尊大な態度に腹を立てることもなくフレデリクは尋ねた。
「辞職願です!」
「却下ね…。こっちの書類は承認と…」
フレデリクはランスから渡された封書を散り散りに破り、精査した文書を机へ置き押印した。
「何してくれるんですか!私!宰相閣下へ!ガザニア公爵様へ不敬を申し上げましたよね?あっ!円満退職がダメってことですか?それなら、クビで構いませんよ!私はベアトリスと共に領地へ引きこもるんです!私は仕事よりも妻を優先する!」
「こんなに出来の良い部下を…。娘の…。オレリアの文句を言われたぐらいで…。まぁ、一国の王妃ではあるけれども…。兎に角、私が君を手放すわけないでしょ?」
「うきっー!このままでは私の最愛のベアトリス!妻が行き場をなくして、もっと病んでしまう!」
お茶会と称して、『王妃を褒め称えグラジオラス公爵夫人をこき下ろす会』へ頻繁に呼ばれていたベアトリスは心の病気を患っていた。
ランスが何を話しかけても、ベアトリスの目から涙が零れる。たまに泣いていないときは視線を宙に漂わせていた。気分は常に落ちこみ、眠れない日々が続いている。
ベアトリスの背中を優しく包み、安心させて寝かせようとランスは試みるも、不眠傾向は治らなかった。
このような状況でもお茶会の招待状は送られてきたが、ベアトリスの手へ届く前にランスが破棄していた。
王家の不興を買おうとも、ランスにとって伯爵家の名分よりも妻が大事だったのだ。
療養のためにブプレウムの領地へ戻ろうとランスは何度もベアトリスを説得したのだが、ベアトリスは応じることはなかった。
ランスを愛していたベアトリスもまたブプレウム伯爵家へ尽くそうと無理をしていたのだ。
「分かった…。そこは善処しよう…。これからは君の奥さんも…。ベアトリス夫人だったね?妹さんはメラニー嬢…。あっ、今は公爵夫人か…。あれが開催するお茶会には呼ばぬよう説き伏せるから辞めるなんて言わないでくれ…」
「出来るのですか?」
「やらなきゃ…。君、辞めるんでしょ?嫌だよ…。私、書類の壁に埋もれるの…。持つべきものは優秀な部下…。他のものでは対処が遅れるしなぁ…」
「不敬を承知で何度も言いますが、あの王妃ですよ…」
「うーーーーん、昔から私のお姫様は、妻に似て…。自分が中心でなければ許せないタイプだったからなぁ…。それでいて、自分は親切で寛大だと思いこんでいるようだし…。甘やかせてしまった、私が悪いんだがね…」
「何とかしてください…。私は妻を失いたくないし…。妹も守りたいのです…」
「あぁ…。もちろんだ…。私も優秀な部下を失いたくない…。奥方にも妹君にも申し訳なく思う…」
フレデリクがオレリアへ手回しをしたお陰で、それからメラニーとベアトリスが王妃主催のお茶会へ呼ばれることはなくなった。
落ち着きを取り戻したベアトリスは翌々年、第二子の妊娠が発覚して領地へ帰ると、ランスの意向で王都へ戻ることはなかった。
世間ではグラジオラス公爵と王妃の純粋な愛に共感していたベアトリスを許せなくて、メラニーが義姉をいびり、故にベアトリスはメラニーを恐れて王都で暮らせなくなったと社交界に広められ、メラニーはますます立場がなくなった。




